ある出来事から思い出した、水前寺清子とペプシコーラの話。
水前寺清子はコカコーラファンであった。ペプシコーラからCM出演の依頼があったとき、「私はコカコーラが好きだから」と断ったという。しかし、それでもぜひ、というのでペプシCMに出演。ペプシのCM撮影の休憩時間、水前寺清子の控室にはコカコーラがおいてあった。これ以降水前寺はペプシコーラのファンになったという。
こういうペプシのプロとしての矜恃を美しいと思う。まあ、今日はそんな一日。
ある出来事から思い出した、水前寺清子とペプシコーラの話。
水前寺清子はコカコーラファンであった。ペプシコーラからCM出演の依頼があったとき、「私はコカコーラが好きだから」と断ったという。しかし、それでもぜひ、というのでペプシCMに出演。ペプシのCM撮影の休憩時間、水前寺清子の控室にはコカコーラがおいてあった。これ以降水前寺はペプシコーラのファンになったという。
こういうペプシのプロとしての矜恃を美しいと思う。まあ、今日はそんな一日。
投稿情報: 23:08 カテゴリー: 考え方のピットフォール | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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今書いている本の草稿です。本当に今回の地震からはたくさんの学びがあります。
薬理学と微生物学のお話
薬理学も微生物学も、率直に言ってそれほど人気のある科目ではありません。「暗記物」というイメージがあるからかもしれません。ここではできるだけ「暗記」ではなく、理解するような形で、実践的な抗菌薬の話をしてみたいと思います。
経験値は正しい抗菌薬の使い方を教えるか?
僕らが推奨する抗菌薬の投与量に難色を示す先生がときどきいらっしゃいます。その理由の多くは
「そんなにたくさんの抗菌薬使ったことがない」
という経験的な気持ち悪さと、
「今まで、普通に投与していて困ったことがない」
という経験論です。
すでにご説明したように、僕は必ずしも経験論を無下に否定するものではありません。経験は貴重です。EBMも経験論も、「他者の事例」を目の前の事例に応用させるという点では同じ、つまり「帰納法」です。このことは説明しました。したがって、(世間でときに言われているのとは異なり)僕は、EBMと経験論は同じ原則に基づくある種の連続的な概念で、両者は真反対の、別な概念ではないと考えます。
日本で通常使用される抗菌薬は、薬理学的には理にかなっていないことが多いです。それは、古い抗菌薬であれば特にそうです。例えば、ピペラシリンというペニシリン系抗菌薬の通常投与量は2gを12時間おき、というものです。時間依存性であり、頻回に投与しないと十分な効果が得られないペニシリン系抗菌薬を12時間という長い間隔で投与するのは、薬理学的には理にかなっていません。
現に、この抗菌薬(ピペラシリン)とタゾバクタムの合剤が近年日本にも導入されましたが、この投与量は4.5gを1日4回(ピペラシリン量にして4gを4回)、6時間おき投与です。同じ抗菌薬でも「最近承認された抗菌薬」だと投与量は多くなり、投与間隔は短くなっているのです。もし、以前の薬(ピペラシリン単剤)が薬理学的に妥当な投与をしていると仮定するならば、タゾバクタムにピペラシリン破壊作用があるとか屁理屈でも持ち出さない限り、この齟齬を説明することはできません。
ここ10年くらいで承認された日本の抗菌薬はおおむね薬理学的に妥当な投与方法となっています。これは、日本の製薬メーカーと診査・承認担当者のレベルアップを意味しています。日本は、確実に良くなっているのです。
ところが、過去に承認され、添付文書も作られている抗菌薬は、昔の使用方法のままで、薬理学的には「まちがった」使い方が記載されています。先ほどお示ししたピペラシリンがそうです。中にはーーーーレボフロキサシン(クラビット)のようにーーー間違っていた投与方法を改定したという事例もあります。かつてレボフロキサシンは100mg1日3回というのが標準的な使用方法でした。濃度依存性の抗菌薬であるレボフロキサシンは、最高血中濃度をきちんと高めたほうが効果が高いので(ピペラシリンとは逆で)頻回に投与はせず、1日1回投与のほうが妥当なのです。現在では、クラビットの投与方法は500mg1日1回に改まっています。
残念ながら、このような「昔の間違いを改める」営為はなかなか日本では見られません。多くの古い抗菌薬は、薬理学的には間違った使われ方が添付文書に記載されているにもかかわらず、相変わらず間違ったままの添付文書のままなのです。日本の製薬メーカーと審査・承認担当者は昔に比べると格段に進歩し、彼らの専門性は以前よりもずっと高いのですが、「過去の間違いを認める」「過去の間違いを是正する」という点においてはまだまだです。自らの間違いを認め、これを正すというのは、知識というよりもむしろプロとしての矜恃の問題なのですが、彼らは(そのテクニカルな進歩にもかかわらず)まだプロとしての矜恃は不十分なままなのです(僕たちはそのプロの矜恃を、福島第一原発の事故を目の当たりにした原子力のプロたちに見る例も、「自称」プロがまったくそうした矜恃を持たない例も、どちらも今回体験しました)。
さて、臨床現場にも問題は残っています。薬理学的に妥当な投与方法を提案しても、
「そんなにたくさん使ったことがない」
という経験論で反論されると、、、これは多分に感覚的な問題なだけに、、、なかなかうまくいきません。
新しい概念を導入するのには時間がかかります。時間をかけて丁寧な説明を繰り返して、少しずつ妥当な線に移行していく他ありません。幸い、日本人は新しい概念を導入することがそんなに苦手ではありません。あんなに大事にしていた日本刀をあっさり捨て、ちょんまげを落とし、「鬼畜」といわれた英米人とあっさりお友達になるだけの「器量の深さ」「寛容さ」を持ち合わせています。日本人は、頭が悪いわけでもありません。きちんと説明すれば(ごくごく一部の例外を除けば)たいていちゃんと理解するだけの知性と理性をお持ちの方が多いです。というわけで、
「そんなにたくさん使ったことがない」
的な問題は、僕は早晩解決していくものと思います。ここ数年で、神戸大学病院の抗菌薬使用も大分改善してきたことが、その証拠です。
さて、
「今まで、普通に投与していて困ったことがない」
こちらのコメントは、若干ニュアンスが異なります。
過去の経験を活かすことは、素晴らしいことだと僕は思います。過去の経験はしばしば役に立ちます。ただし、より役に立つのは成功体験ではなく、失敗体験です。
世の中には、インフルエンザワクチンを一度も打ったことがないのにインフルエンザにならない人がいます。「俺は、いままでインフルエンザになったことがないから、ワクチンは要らないよ」とおっしゃいます。
しかし、過去の体験は、小難しく言うと全て「独立事象」であります。過去にインフルエンザにかかったことがないからといって、未来にインフルエンザにならないという保証は一つもありません。丁半ばくちを打っていて、過去5回連続で「半」がでたからといって、次にやはり「半」になる保証にならないのと、同じです(もちろん、つぎも半になる可能性も、やはり同じく50%のままです。イカサマがなければ)。
シートベルトをしないで車を運転していても全然事故を起さない人がいます。ヘルメットをしないでバイクに乗る人もいるかもしれません。ビールいっぱい引っかけたくらいなら大丈夫、、、と運転している人も、ひょっとしたらいるでしょう。では、そのような「過去大丈夫だった」という経験は、未来の安全を保証するでしょうか。そんなことないですよね。過去のいきさつがどうであれ、車の運転時にはシートベルトが必要で、バイクに乗るときはヘルメットが必要で、飲酒運転はよろしくありません。
過去何百年大丈夫だからといって、未来の安全を保証しない。僕らは東北を襲った地震と津波で、、そしてそこから発生した原発事故で大変に重い、いや重すぎるほどの教訓を得たはずです。
例えば、ある外科の先生が
「俺は術後の創部感染、1日2回のベータラクタムで治療していて、うまくやっていたよ」とおっしゃいます。薬理学的に妥当な抗菌薬投与法だと、もっと頻回に投与したほうが、、、とお奨めするのですが、「今まで大丈夫だから大丈夫」とおっしゃいます。そして、次に
「大体先生、俺は手術に関しては長い経験を持っているんだよ。先生に何が分かるの?」
と言わる。
うーん、そうですね。実を言うと、術後感染症に関する限り、僕くらい経験値の高い外科の先生はあまりいないのではないかと思います。なぜなら、僕らはトラブルが起きたときだけ呼ばれる感染症のプロであり、外科の先生は「たいていは術後経過問題ない」日常を送っておいでだからです。
例えば、ここにベテラン・ドライバーがいたとしましょう。無事故、無違反、模範的なドライバーです。ここに、やはり同じキャリアの警察官がいます。交通課にずっといて交通事故を主に担当しています。
どちらが、交通事故に関するエキスパティースが高いと思いますか?もちろん、答えは後者です。
交通課の警察官は「上手くいかなかった交通事故の事例」を知り尽くしています。ありとあらゆる交通事故を検証し、「どういうふるまいが交通事故につながるか」も熟知しています。一方、ドライバーにとっては交通事故はまれな事象であり、それは優秀であればあるほどそうであります。両者において、交通事故の知識、経験、専門性に大きな差が生じるのは当然といえましょう。
同様に、感染症のプロは「上手くいかない術後感染症」の事例を知り尽くしています。1日2回という間隔の伸びたベータラクタム薬を使用しており、それで治癒に至らないケースは珍しくありません。「同じ抗菌薬」の量を増やし、投与間隔を短くしてやるだけで良くなることもまれではありません。そのような体験は、もちろん多くの外科医が経験することはありません。術後に感染症を起こすことは日常的ではないですし、薬理学的に妥当ではない治療法でも治癒に至ることはあるからです。シートベルトをしないからといって即座に交通事故で死んだりしないように。しかし、ベテランドライバーが「俺はこの道何十年のベテランでずっとシートベルトしていないけど、一度も問題になったことがない」と言われても、やはり(シートベルトなしの交通事故がどれほど悲惨なものかを知り尽くしている)警察官としては、「あなたのおっしゃることにはウソはないのでしょうが、それでもシートベルトはすべきなのですよ」と申し上げねばならないのです。およそ「うまくいかない感染症マネジメント」についての経験値において、感染症のプロくらいその数とヴァリエーションを網羅している人物は、そうはいません。「いやいや、術後に感染症を起させたら俺にかなうものはいないよ。手術をすれば感染症はほぼ必発。術後感染症において俺くらい経験値の高い医者はいないね」という奇特な外科医には、未だお目にかかったことがありません。
繰り返しますが、経験はとても大切であり、僕はそれを大事にします。しかし、成功体験がもたらす「錯覚」にもとても自覚的であるべきです。失敗がもたらす経験もまた、成功体験がもたらす以上に貴重な学びの機会です。経験とは、そのように我々プロに認識され、未来に向かって活用されなければならないのです。
投稿情報: 14:29 カテゴリー: 考え方のピットフォール | 個別ページ | コメント (1) | トラックバック (0)
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日経メディカルオンラインで、アメリカの医学校に通う(訂正、、通っていた)日本人医師の日本医療体験記が載っている。
まあ、これについて僕はノーコメント。こういう文章は褒めたり貶したりという「評論」をするのではなくただただ読むだけにしておくのがマナーだと思う。
「他者」「他国」を語る方法については、「ケニアのスラムで高血圧を治さない」でまとめている。他者を語るのは、本質的にバイアスを断ち切れないので難しい。若い人は若い人で、年をとったらそれはそれで、陥りがちなピットフォールがあるから、要注意だ。
感染症についても、未だに「日本の感染症」と「アメリカの感染症」という切り口から議論されることがある。そろそろ、飽きませんか?こういうのは。というわけで、今書いている本の原稿一部抜粋です。ご覧いただければ幸いです。
アメリカ流か、否かの問題
僕はアメリカで感染症のトレーニングを受けたおかげで(せいで?)「アメリカ流」の感染症医だと考えられることがあります。まあ、こういうレッテルを貼りたがるのは本人に会ったこともないような人たちのことが多いんですけどね。
アメリカの医療は、そして感染症診療は優れていて日本のそれは劣っているのだから、かの地の医療スタイルを導入すべきだ、という主張があります。他方、ここは日本なのだから、アメリカ流ではなく、我が国独自の文化や社会のあり方や、民族性を考慮に入れた方がよい、という意見もあります。
僕は、「ここは日本なのだから、日本独自のやり方」を貫いたほうがよいと思います。
さて、その「日本のやり方」とは何か?それは海外のよいものを積極的に取り入れて、それを自分たちの風土や文化や習慣にフィットするようにアレンジして、そして応用するやり方です。それこそが「我が国」のやり方そのものではないでしょうか。音楽も、映画も、小説も、ビジネスも、学問も、みんなそのように成り立っているのが「我が国のやり方」です。日本人が憧れる日本人ナンバーワン(?)の坂本龍馬だって、国のあり方のモデルとして一般人でも大統領になれるというアメリカ合衆国を参考にしていたそうです(まあ、本当に「一般人」ではアメリカ大統領にはなれませんが、世襲制でないという意味で)。
これが、我々日本人独自のやり方です。内田樹さんのいうところの「辺境」人としての生き方です。
マンガやアニメは日本のオリジナルじゃないか、という反論もあるかもしれません。しかし、手塚治虫がディズニーから多大な影響を受けていることは良く知られていますし、彼のストーリーマンガにはハリウッド映画の画面構成がしばしば援用されています。そして手塚治虫から直接、間接的に全く影響を受けていない日本の漫画家はとても少ないのです。
宮崎駿のアニメも外国作品の影響を受けています。有名なのはフランスの「やぶにらみの暴君」(ポール・グリモー監督 1952年)ですね。これを観ると、あの名作「ルパン三世カリオストロの城」もこの映画からの影響がとても強いことにすぐ気がつきます。荒木飛呂彦の名作、「ジョジョの奇妙な冒険」のストーリーの多くはハリウッド映画の露骨なパクリです。「激突!」とか、「ミザリー」とか。オードリー・ヘップバーンの「ローマの休日」をパクった作品は数知れず。「パタリロ!」でも「からくりサーカス」、そうそう、桂文珍の「老婆の休日」もありましたね。
僕はそれがいけないと言っているのではありません。他者の作品から強烈な影響を受け、それをエネルギーにして優れたものを作るのは、日本人の「やり方」としてとてもフィットしているのです。もちろん、ジョージ・ルーカスの「スター・ウォーズ」は黒澤明の影響を受けていますし、こういう「オリジナルのアレンジ」が完全に日本だけの現象とはいえないでしょう。ただ、傾向として日本人は「辺境人」として他者のまなざしに影響を受け、これを糧に自身にフィットする何を醸造する方法に慣れているのです。まあ、これを「パクリ」と呼ぶか「オマージュ」と呼ぶかは恣意性の為せる業ですしね。「発酵」と「腐敗」の違いが、人間の恣意性にしか存在しないように。
というわけで、アメリカ(その他どこの国でもいいですが)のやり方を頑なに無視し、自分の土地の中にある概念「だけ」で勝負しようという発想は、それこそ「日本的」ではない。むしろ、海外にある良いものはどん欲に取り入れ、それを咀嚼し、自分たちの風土や文化や習慣にフィットするようにアレンジして上手に使いこなすこと、これこそが日本人的なものの考え方ではないでしょうか。
日本の感染症医の多くがグラム染色を重要視しますが、現在のアメリカではこのプラクティスはーーー少なくとも医師の間ではーーーほぼ消滅しています。それは制度的な理由もあるでしょうし、「エビデンス」的な理由もあるでしょう。1970年代から80年代、、、アメリカでまだグラム染色が医師によって行われていた時代のプラクティスを、喜舎場朝和先生や青木眞先生たちが日本に紹介しました。この安価でレイバー・インテンシブなプラクティスは、安価で(!)勤勉な日本の医師によくフィットしています。このことを僕は「ガラパゴス化」と呼んでアメリカの感染症専門誌に紹介したのですが9、その後日本の状況を表象する言葉として「ガラパゴス化」と言われるようになったのは、なんか奇妙な偶然を感じました。
感染症というのはローカルな要素、その地域の要素の影響を強く受けています。アメリカではバンコマイシン耐性腸球菌(VRE)や薬剤耐性アシネトバクターは比較的多く見られますが、日本ではあまり見られません。そのアメリカや日本ではとても多いMRSAはオランダではほとんど存在しません。住んでいる地域、医療環境によっても細菌の感受性パターンは異なります。微生物の地域性もあります。日本に多いアニサキス症は日本の食生活を反映した疾患で、生魚をあまり食べない諸外国ではまれな感染症です。日本でマラリアを見ることはまれですが、世界的には毎年何億という患者がこの疾患を発症し、毎年100万人以上の患者が死んでいます。感染症のあり方は各国で千差万別なのです。
オランダは、世界で一番耐性菌の少ない感染症の優等国ですが、ここでやっている医療、、、それはほとんどの細菌感染症をペニシリンのような境域スペクトラムの抗菌薬で治療するのですが、、、をアメリカに「いきなり」持ち込んだら、たくさんの患者が耐性菌による感染症で死亡してしまうでしょう。アメリカの医療、、、それは広域スペクトラムの抗菌薬を「がんがん」使う医療ですが、、、、を直接オランダに持ち込んだら、オランダは耐性菌だらけになってしまうでしょう。自分の住む土地のあり方を理解せずに直接コピー・アンド・ペーストするだけでは、上手な感染症診療とはならないのです。
アメリカで起きている感染症と日本で起きている感染症は「名前」は同じでも異なる現象を指していることもあります。たとえば、「院内肺炎」(hospital acquired pneumonia, HAP)。おそらくは、日本における院内肺炎とアメリカにおけるHAPは別の現象を指しています。アメリカでは非常に入院期間が短く、いわゆる社会的入院はほとんど皆無で、そのため入院している患者さんは相対的に重症な患者さんばかりです。肺炎を起こしている患者の多くはすでに気管内挿管されており、事実上人工呼吸器関連肺炎、ventilator associated pneumonia, VAPと同義になっています。ところが、日本における「院内肺炎」の大多数はVAPではなく、また予後も良いのです。アメリカの院内肺炎ガイドラインでは非常に広域な抗菌薬をがんがん使うよう推奨されていますが10、日本にそれを適用してしまうと「使いすぎ」になってしまうかもしれません。
とはいえ、日本で良く行われているように、「CRPが高いから、とりあえず抗生物質使っておいて」という習慣が許容されて良い根拠は、僕は乏しいと思います。きちんと診断をつける努力をしましょうね、、、これは十分に日本でもフィットする概念なのではないでしょうか。菌血症の懸念があれば、血液培養をしっかり取りましょうね。こういうのも、感染症のバックグラウンドとか我が国独自の文化、風土とは無関係に適応できる概念でしょう。「ここは日本だ」を免罪符にして質を高めない言い訳にしてはいけないのです。「アメリカでやっていること」イコール、それを否定し、拒否しなければならない概念と決めつける根拠はどこにもありません(ていうか、それってあまり日本人的じゃないし)。
投稿情報: 09:46 カテゴリー: 考え方のピットフォール | 個別ページ | コメント (2) | トラックバック (0)
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ご本人に許可を得て転載します。
はじめまして。私は専門学校の教員です。近年パワーポイントが当然のごとく授業で使われていますが、自分の講義内容をパワーポイントに置き換えることが難しく、なぜパワーポイントでなくては駄目なんだろうと疑問を感じていました。こちらの記事を読んでなんとなく安心しました。データの内容は記憶に残りずらく、学生を揺さぶるには限界を感じてもいます。分野はだいぶ違いますが、同じように考えていらっしゃる先生がいて勇気づけられました。ありがとうございます。アナログでも何かをうったえかける授業をがんばります。
投稿情報: 10:56 カテゴリー: 考え方のピットフォール | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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部屋とワイシャツと私、みたいなタイトルになっちゃった。
西條剛央さんから、被災地でノロウイルス感染症が流行しているとき、そこに支援に行けるか、という質問を受けた。
行ける、と僕は回答する。
ノロウイルスは水や食物などを介して、「触る」ことで手から他者に感染する。これを接触感染という。このパターンでの感染が、ノロではほとんどだ。もし、支援が「医療や介護」が目的でないのなら、ウイルスを排泄している患者に触れなければ、リスクはかなり小さい。無症状でウイルスを有している潜伏期にあるものもいるかもしれないが、彼らから感染するリスクは相対的にはかなり小さい。下痢したり吐いたりしている人に触らなければ、通常の支援はできますよ、というのが僕の回答。
とはいえ、「厳密に言うと」この回答は正しくない。ときに、ノロウイルスは吐物がミスト化して吸い込むことで感染する事例もあるからだ。そういうことを考えるとマスクをつけておけばベターだが、マスクも100%の効果があるわけではない。
なーんてことを言っていると、「支援に行けない」ということになってしまう。リスクをゼロにしようと希求するとプラグマティックな判断ができなくなってしまう。そもそも、余震が続く被災地においてリスクゼロの支援なんてありえないのではないだろうか。「それなりに」安全に支援するしかないのである。
支援者は原則健康なものであると仮定する(なにかあると命にかかわるような方は、現地に行かないほうが良い)。万が一ノロウイルス感染症に健康なものが罹患しても、それはうっとうしい腸炎をもたらすのだが、命にかかわることはない。ノロウイルスが問題になるのは(命にかかわるのは)ちょっとした脱水が致命的になり得る高齢者や基礎疾患を有する人なのである。同じ感染症でも相手によってリスクのインパクトは大きく異なる。
支援者が現地で感染症に罹患するリスクは(インフルエンザを含めて)ゼロではないが、そのリスクのインパクトは相対的に小さい。むしろ心配すべきは逆で、支援者が感染症を有していて現地入りすると、向こうに「人災」をもたらしてしまう。このことは高山先生がしばしば指摘するところだ。事実、2010年1月のハイチの地震後に、ハイチは甚大なコレラのアウトブレイクに悩まされる。2011年3月までに4000人以上の死者を出し、何十万人という患者を発生させたコレラは、国外の支援者が持ち込んだのではないかという懸念がある(それに対する反論もある)。
これが病院内であれば、ノロウイルス対策はもっと厳密な、徹底的なものになる。アウトブレイクを起こしている病棟への面会謝絶が行われることもある。しかし、被災地の支援は、特に食料や水などの基本的なアイテムを欠く場所での支援は、健康なる支援者のノロウイルス感染症の懸念よりも大きいことも多いだろう。このようなとき、僕は意図的に二枚舌を使う。それを「ウソ」と呼ぶことも、できなくはない。
僕は、性教育の授業などでは「エイズにかかるのはとても危険だから、絶対に感染しないよう注意しましょう」と言いつつ、実のエイズ患者には「エイズは治療が進歩して天命を全うできる病気です。悲観せずに前向きにいきましょう」などと言っている。二枚舌である。
感染のリスクは「ある程度」は抑えることが大事である。しかし、とことんまでおさえることには意味が無い。被災地における支援者の感染リスクをゼロにする方法は簡単で「行くな」の一言に尽きる。究極的な、よって非現実的なインフルエンザ対策はワクチンでもタミフルでもマスクでもなく「外出するな」である。
このように「程を考えず」極端なゼロリスクに走るいびつな感染対策は、たいていよくない感染対策なのだが、我々は苦い歴史を持っている。それがかつての「らい予防法」である。感染のリスクは極めて低い、しかしゼロではないこの感染症をcontain(封じ込める)ために、我が国は(そして多くの外国も)極端なゼロリスク対策をしき、その代償として患者とその周辺は取り返しのつかない巨大な損失を被った。この「取り返しのつかない」というのは、文字通りの意味で、そうである。リスクをゼロにしようと徹底しすぎると失敗する典型例である。
僕は想像する。らい予防法を推進した光田健輔は不正義の人ではなかっただろう。おそらくは善意で、健康に害を及ぼすハンセン病を日本から駆逐しようと、純粋な正義感や義侠心にかられて行動したのだと思う。そこに名誉欲や金銭欲が皆無だったかどうかは分からないけど、少なくとも名誉欲や金銭欲だけで医者がドライブされることはそんなに多くない。彼は「正義の人」だったのである。正義感はまっとうなジャッジメントを保証しないだけなのである。自閉症と麻しんワクチンの関係を強固に主張し、論文を捏造したウェークフィールドも、彼の発言を聞く限り、「悪意の人」ではなかったのだろうと僕は想像する。彼はやはり正義感が強く、義侠心にあふれた人だったのだと思う。自閉症の子を持つ親御さんの熱い思いに「俺が応えなくて、誰がやる」と思ったのではないか。もちろん、かれは(虚偽の論文で)ランセットに掲載されたし、麻しんワクチンに関係した弁護士たちからお金をもらっていたのだけど、こういう「営利目的」だけであのような活動はなかなかできるものではない。シーシェパードもそうですね。彼らは非常に手前勝手で幼稚な集団だが、決して単なる金もうけ主義者ではなく、強烈な正義感をバックボーンに活動するのである。こういう「正しい人たち」は、しかしその正しさ(と彼らが認識するもの)のゆえに、極め付けにやっかいなのである。
感染対策は、僕みたいにややうさんくさくて、薄汚れていて、ぼんやりしているくらいの人間がやったほうがうまくいく(こともある)。そんなふうに最近思う。
投稿情報: 07:27 カテゴリー: 考え方のピットフォール | 個別ページ | コメント (1) | トラックバック (0)
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「どのくらい」シリーズ。いよいよ喫煙である。「喫煙は体にどのくらい悪いか」がテーマである。喫煙が体に悪いことはほとんどの人にとって自明である。僕にとっても自明である。もんだいは「どのくらい」悪いか、である。というわけで、この論考にはタバコの歴史も国際情勢もお金の話も禁煙指導法も一切登場しない(登場しなかったからといって、お前はその知識がないとなじるのはご勘弁)。
タバコの体に良い面も、実はあるっつっちゃあ、ある。しかし、それはとてもささやかなもので、そんなに喧伝するほどのものではない。ここでのテーマにもフィットしない。したがって、これも割愛する(ただし、パラドキシカルなもの、つまり喫煙がリスクを増すと思われるのに逆説的なデータがあるものには言及がある)。
だから、タバコの肯定的な側面を主張したい人にとっては、この論考は「アンフェア」な文章である。しかし、この論考は「喫煙は体にどのくらい悪いか」をテーマにした論考であり、それ以上でもそれ以下でもない。党派性のあるポリティカルペーパーでもなければ、アドバタイズメント(広告)でもない。ある特定のグループの利益も不利益も、この論考には関係が無い。とにかくこれを読んだ人が「喫煙は体にどのくらい悪いか」、ある程度ご理解いただくことが目標である。あと、電子タバコみたいな特殊なものは今回検討していない。
訳語については「正式な学会認定用語」を用いていない可能性がある。単に僕が知らないからということもあるかもしれないし、敢えて学会用語を無視した場合もある。これは僕が感染症の本を書くときも同様で、化学療法学会用語集ではなく、「皆が使っている言葉」を基準に訳出している。「分かりやすさ」を基準に訳しているからである。
今回は「体に悪いか」がテーマだが、実は体にもたらす影響は多種多様である。例えば、タバコの臭いで気分が悪くなるとか、もっと行くと喫煙者を見るとイライラするとか。僕も子どもの時にタバコの臭い交じりの車でよく車酔いして吐いたので、その気持ちはよく分かる。ただ、下記に述べるような医学的問題に比べるとこのような問題を定義するのは困難だし、相対的にはソフトな問題なので(少なくとも心筋梗塞よりは)、本稿では割愛する。
あと、僕はタバコ関連の企業からも禁煙を支持する団体からも、その他タバコに関連する全ての個人・団体からも金銭その他、何の授受もない。一応、言及しておく(いちいちこんなことまでディスクローズしないといけないとは、面倒くさい世の中だなあ)。プルーフリーディングは甘いので、書体とか形式は、雑になっていてすみません。
喫煙と依存
ある物質を消費することを「使用」(use)といい、その使用がその人に害をもたらすと「乱用」(abuse)となる。
依存(dependence)には二種類ある。肉体的依存(physical dependence)と心理的依存(psychological dependence)である。肉体的依存は、まあ肉体がその物質に依存しているというか、「もの」が急に切れると禁断症状が起きる(withdrawal syndrome)ことがある。タバコの場合は、ニコチンが切れた状態である。
心理的依存では、やめたからといって禁断症状は見られない。ただ、その「もの」が欲しいと強く希求し、それがないと非常に困った状態に陥る。
ある特定の物質は肉体的依存を起こしやすく、タバコもそうである。酒もそうである。カフェインがそうである。あるいはある種の医薬品(ベンゾジアゼピンやプロポフォール)がそうである。違法薬物ではヘロインが一例である。
心理的依存は、ほとんど全ての嗜好品で起きると考える。チョコレート、スナック菓子、ときには「健康食品」すら。摂取するものでなくても、例えば「ギャンブル」「女(男?)」「買い物」などさまざまなものが「依存」の原因となる。むろん、タバコも心理的依存を起こし得る。
依存症(addiction)とは、慢性の神経系の疾患である。遺伝的、心理学的、環境的な要素が寄与しているとかんがえられる。そこでは、物質摂取のコントロールが出来なくなったり、強迫的な(compulsive)な使用があったり、害があるにもかかわらず継続的な使用があったり、渇望があったりする。
ニコチン依存
タバコにはニコチンが含まれ、これが依存や乱用の主な原因である。一本のタバコから、典型的には1.2-3.2mgのニコチンが吸入される。
ニコチンの体内での作用は中枢神経、心血管系、代謝系と多岐にわたる。
ニコチンは神経伝達物質の増加を促す。ドパミン、アセチルコリン、ノルアドレナリン、グルタミン、セロトニン、ベータ・エンドルフィン、GABAなど。これにより、中枢神経に様々な効果をもたらしたり、血管収縮を起こしたり、視床下部・下垂体を刺激したりする。
ニコチンの吸収は早く、作用は15秒ほどで感じられる。半減期は2時間と短いため、頻回な使用を必要とすることが多い。
ニコチンにはトレランスが生じる。繰り返しタバコを吸いたくなるのはそのためである。特にストレス下でニコチンへの渇望は増加する。
アメリカのデータだと、ニコチン依存は青少年のときに生じやすい。18歳までに喫煙経験があるもののうち、71%がタバコを常用するようになっている。アメリカでは2008年の時点で18−24歳のうち2割程度が喫煙者であった。同年、アメリカでは男性の23.1%、女性の18.3%が喫煙者である。ちなみに、中国では成人男性の7割以上が喫煙者であり、国別の違いは大きい。喫煙率が一番低いのがアジア人で9.9%、次いでヒスパニック(21.3%)、黒人(21.3%)、白人(22.0%)、アメリカ・インディアン/アラスカ人(エスキモー)(32.4%)。
日本での平成18年(2006年)にて男性の39.9% 、女性の10%が習慣的喫煙者である。特に多いのは30代男性で53.3%が習慣的喫煙者、同年齢の女性では16.4%である。
ニコチン依存には遺伝的要素がある。アジア人はニコチンとコチニンに代謝するp450 CYP2A6が多く、他人種よりもニコチンに抵抗性がある。ただし、これだけが全てを決定するわけではない(他のどの病気もそうであるように)。
アメリカの場合、教育レベルが高いほど、収入が多いほど喫煙率は低下する。逆に教育レベルが低い、貧困では喫煙率が高い。
アメリカとドイツのスタディによると、成人が一生涯にニコチン依存を発症する可能性が25%、調査時点での有病率が15%であった。喫煙者の半数が依存状態にある(DSM/ICD分類による診断)。Drug Alcohol Depend. 2006 Nov 8;85(2):91-102. Epub 2006 May 15.
日本の場合、ICD-10, DSM-III-R and DSM-IV の基準に応じて、生涯におけるニコチン依存の発症頻度はそれぞれ42, 26, 32%であった(ただし、こちらの分母は喫煙経験のある男性であることに注意)。この論文の結論によると、これはアメリカのデータと似ているとのこと。Addiction. 1998 Jul;93(7):1023-32.
他の薬物との比較(Roquesら)
アヘン剤 身体依存非常に強い 心理的依存非常に強い 神経毒性弱い 全体的に毒性強い 社会的害 非常に強い
コカイン 身体依存弱い 心理的依存強い 神経毒性強い 全体的に毒性強い 社会的害 非常に強い
アルコール 身体依存非常に強い 心理的依存非常に強い 神経毒性強い 全体的に毒性強い 社会的害 強い
ベンゾジアゼピン 身体依存普通 心理的依存強い 神経毒性とても弱い 全体的に毒性とても弱い 社会的害 弱い
カンナビス 身体依存弱い 心理的依存弱い 神経毒性非常に弱い 全体的非常に弱い 社会的害 弱い
タバコ 身体依存強い 心理的依存非常に強い 神経毒性非常に弱い 全体的に毒性非常に強い(癌含む) 社会的害 非常に弱い
ここでいう社会的害とは暴力、犯罪などを指すのではと想像している。
ヘビーユーザーにおける有害効果の比較(Hallら)
マリファナ アルコール タバコ ヘロイン
交通などの事故 * ** *
暴力/自殺 **
過量摂取死 * **
HIV/肝感染 * **
肝硬変 **
心疾患 * **
呼吸器疾患 * **
癌 * * **
精神疾患 * **
依存 ** ** ** **
胎児への持続的影響* ** * *
心血管系疾患、脳血管障害
心血管系疾患死亡の11%は喫煙に帰せられると考えられている(Ezzatiら)。
心突然死のリスクは8年以上のフォローで、喫煙者で8.1%、禁煙者で4.6%、喫煙経験のない者で4.6%であった(Goldenbergら)。35年フォローした場合の心血管系の死亡率、喫煙のハザード比は1.63 (Qiaoら)。
心筋梗塞に対する喫煙のリスク。相対リスクで女性は2.24-3.3、男性は1.43-1.9。
日本での40-79歳の10年間のコホート研究。ハザード比は男性で1.51、冠動脈疾患で2.19、脳卒中で1.24であった。女性ではそれぞれ1.85, 2.84, 1.70であった(Honjoら)。
喫煙後CABG、その後禁煙した場合と継続した場合を比較して、予後が悪い。PCIも同様。
なぜか、血栓溶解療法を受けた場合は喫煙者のほうが予後が良い(smoker's paradox)
安定狭心症でもこのパラドックスはあるかも(観察研究レベル)。
不安定狭心症でも喫煙者のほうがICU内死亡率が低いというスタディがあるが、他のリスク因子との交絡をとると独立危険因子にはならなかった。
癌
心血管系疾患に比べ、リスクを直接見積もるスタディがあまり見つからなかった。
喫煙量と癌のリスクは相関している。
喫煙関係の死亡の半数は癌が原因
40%の全ての癌が喫煙に関連している。
喫煙と関連があるという十分なエビデンスがある癌に、膀胱がん、子宮頚癌、食道がん、腎癌、喉頭ガン、肺癌、口腔内癌、咽頭癌、膵癌、胃癌、AMLがある。
喫煙との関連を示唆するエビデンスがある癌に、大腸癌、肝癌がある。
肺癌の発症は喫煙者で少なくとも20倍は上がる(ただし後述参照)。喉頭癌は20-30倍である。ヘビースモーキングは食道がんのリスクを10倍上げる。膵癌は2-3倍。子宮頚癌は4倍、卵巣癌は3倍という報告もあるが、エビデンスは十分ではない。膀胱がんは2-4倍。腎細胞癌は喫煙量依存である。相対リスクは女性で1.38 、男性で1.54。大腸癌は喫煙と関連があるが、発症に時間がかかる。女性にリスクが多いらしい。白血病は1.3倍多い。死亡の相対リスクは1.53。
日本人の喫煙者における肺癌死亡率は西洋諸国よりも低く、これもsmoking paradoxと呼ばれることがある。アメリカ人の喫煙者の肺癌発生リスクのオッズ比は40.4で、日本人の3.5の10倍以上である。
日本における癌の死亡 平成21年(2009)で、
女性
肺 18548
胃 17241
結腸 14526
乳房 11918
肝・肝内胆管 11088
男性
肺 49035
胃 32776
肝/肝内胆管 21637
結腸 14166
膵 14094
COPD
大多数のCOPD患者は喫煙が原因である。日本における死者は(2009)、15000人弱。
その他
2000年には、世界で400万人以上(3.94-5.93million)の人が喫煙由来の原因で死亡している(Ezzatiら)。
クモ膜下出血は男性で3.6倍、女性で6.3倍にあがる。
末梢血管障害。喫煙は大きな原因となる。また、USPSTFは65-75歳の男性で喫煙歴があるものをAAAのスクリーニングをするよう推奨している。
アルツハイマー病。1箱以上吸っているとリスクは4倍。
甲状腺機能亢進症
甲状腺機能低下症(ただし、ヨウ素摂取低い場所で)
糖尿病(タイプ2) 1日1箱以上でリスクは2倍以上に。ただし、因果関係ははっきりしていないらしい。
うつ病 たばこの本数が多いほどうつ病の発症率が高い。両者に共通する遺伝素因が原因か?
不眠
しわ
黄斑変性症 1箱以上の喫煙で2-3倍に
受動喫煙
英語では、secondhand smoke(SHS)という。非喫煙者によるタバコの煙の吸入のことをいう。
ほとんどが配偶者や両親、ときに職場での長期にわたるSHSの害を調べたものが多い。ちょっと道で喫煙者にすれちがった、、みたいなのは健康リスクとはならない(なるというエビデンスが無い)ようだ。前に、「いや、ちょっとすれ違っただけでも心血管系の疾患は増える」というご指摘をどなたからか受けたような記憶があるが、詳細を覚えていない。ご存知の方がいたら教えてください。
配偶者からのSHSにおける肺癌の相対リスクは1.21くらい。類似のスタディもにたような結果。
日本でのスタディ。前向きコホート研究で、夫が喫煙する場合の妻。16年のフォローで肺癌のリスクは非喫煙者に比べ、過去の喫煙者、毎日1−14本、15−19本、20本以上で、それぞれ相対リスクは1.36, .42, 1.58, 1.91であった。
職場におけるSHSでの肺癌の相対リスクは1.22
小児期に両親の喫煙でのSHSからの肺癌発症。メタ分析では有意差なし。母親だけの喫煙も、父親だけの喫煙でも同様。ただし、25本以上吸っている場合には肺癌のリスクが2倍になるというスタディも(25本以下なら有意差なし)。
喘息やCOPDの増悪がSHSでおきるかははっきりせず。ただ、職場で喫煙を禁止すると呼吸状態が良くなったというスタディも。SHSによる呼吸機能増悪もスタディにより結果はまちまち。
冠動脈疾患についてはメタ分析があり、妻が現在喫煙者の場合の喫煙しない夫の7年程度のフォローで、死亡率は増加、rate ratio 1.22。夫が喫煙者で妻が非喫煙者の場合の妻の死亡率の増加はなし。過去の喫煙者の場合の死亡率の増加はなし。
別のメタ分析では、配偶者の喫煙のSHSで妻の冠動脈疾患は相対リスクでときどきの曝露で1.58、常に曝露で1.91。
SHSで糖尿病が増えるのでは、というデータもあるが因果関係ははっきりしない。
受動喫煙と小児
両親からのSHSで、喘鳴、咳などの呼吸器症状が増える。ORは1.2-1.3くらい。両親ともに喫煙者だと、ORは1.4-1.6くらい。下気道感染も増える。喘息もの有病率も増える。片親だと有意差が無いが、両親ともに吸っているとOR 1.4くらい。
どちらかの親からのSHSで中耳炎が増える。ORは1.37。
SHSで乳歯の齲歯が増える。永久歯については関連を見いださず。
胎内、出生後のSHSで小児がんが増えるのではといわれている。メタ分析では全ての癌でRR 1.10、白血病など個々の癌では有意差なし。
大人になってからの肺癌。前述
大人になってからの他のがん。後向き研究で危険が増すという報告あり。
妊婦
アメリカの妊婦の1割程度が喫煙者である(2002)、という報告もあるが、自己申告では本当のことは分からないというスタディーもある。スコットランドのスタディーでは、妊婦の24%が喫煙者であると述べたが、コチニンを測ると30%で喫煙者であると判明している(BMJ 2009; 339:b4347)
不妊のリスクは、OR 1.60
低出生体重児は喫煙妊婦の12.4%に、非喫煙者の7.7%にみられる。
早産のリスク(37週未満)は1.3-2.5倍
流産のリスクが、10本以上の喫煙者で相対リスク1.2-3.4
死産のリスクは、1.2-1.4
前期破水のリスクが1.4-2.5
新生児奇形と喫煙との因果関係は不明な点が多い。first trimesterの喫煙は足の奇形に関連する。口唇裂など他の奇形との関連も示唆されているが、因果関係ははっきりせず。
出生後新生児死亡 相対リスク 1.2-1.4
母乳の減少、脂肪濃度の低下
SIDSの相対リスクは2.0-7.2と高い。
妊婦のpreeclampsiaは喫煙にて減少(OR 0.51)。
参考文献
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平成18年国民健康・栄養調査
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Roques B. Problemes posées par la dangerosité des drogues. Rapport du professeur Bernhard Roques au Secrétaire d'Etat à la Santé. Paris, 1998.
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厚生労働省 平成21年(2009) 人口動態統計(確定数)の概況
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「どのくらい」という程度の問題と、想像力のことをずっと考えている。
東京大学の北村聖先生が指導医講習会でやる定番のネタに「医師に対する患者のお礼」がある。
患者が医師に大金を包んできたら、あなたはどうする?
もし、それが商品券だったら?
もしそれが、賞味期限のあるお菓子の詰め合わせだったら?
もしそれが、賞味期限の短い果物だったら?
もしそれが、高齢の患者が手を震えさせながら、しわくちゃになったポケットから出された五千円札で、「ぜひ受け取ってください、ありがとうございます」とあなたに拝むように差し出したとしたら?
医師が患者から金品を受け取るのはよくないから、やめましょう。これは定型的でシンプルなソリューションである。それは、もちろん正しい。ただし、「正しい言説」のマニピュレーションには注意が必要だ。必死の思いでなけなしの五千円を差し出すおばあちゃんに、「規則ですから」とお金を突き返すのが正しい医者の姿だろうか。おばあさんの心のうちは、どうだろう。想像力を働かせたい。
僕なら「ありがとう」と頭を下げてそのお金をいただくことだろう。そのことはもちろん一般的なルールがだめだとか意味がないとかいう話とは関係ない。過度の一般化は知性劣化の最大の要因だ。
文脈が、「程度」がものごとの意思決定に影響を与える。文脈を読まず、想像力を働かせず、ただひたすら正しさとか原則を希求するところに、しなやかな臨床現場は訪れない。
うまく定型的に治療できる患者には、うまく定型的な医療を提供すれば良い。母乳は正しく、禁煙は正しい。もちろん正しい。しかし、世の中にはそのような定型性から外れたアウトサイダーがいるのも事実である。彼らにどういう言葉を提供するかどうかが、プロたる医師の力の見せ所である。
西條剛央さんが、いちばん悲惨な目に遭った南三陸にタバコと酒をさしいれて現地の方にとても感謝されている(@saijotakeo)。
一般論で言えば、「アルコール依存に拍車をかけるのでは」とか「被災地にタバコを持ち込むなんてもってのほか」という定型的な回答で、西條さんは「識者」に批判されて終わりである。
しかし、想像してみて欲しい。街を津波にさらわれ、家族を失い、その家族は津波で首をもがれ、腕をもがれ、無茶苦茶な状態で無茶苦茶な死体になっている。自分たちは流通の関係でほとんど補給のないままこの寒い三週間を過ごしてきた。生きていることそのものに価値を失いそうになっている。そこで一杯の日本酒、一本のタバコ(ここでも量が肝腎だ)がふっと提供されることがもたらす意味は何だろう。別に一升瓶10本とか、カートン10箱とかを提供しているわけではない。「程度」の問題はここでも大事だ。
想像してみて欲しい。そこで、被災者の前で、「みなさん、被災地での飲酒や喫煙は依存のリスクを高めますから、それはこちらに返してください」と言える人は、どういう了見の人物だろうか。「程度」というのは、そういう話である。
(僕の言っていることがおかしい、と思う人は、ぜひ南三陸にいって西條さんの差し入れを回収してきてください)
僕はアウトライヤーのことを考える。一人暮らしの生保・高齢者。糖尿病だがつい「やけになり」食べ過ぎてしまう。彼の治療はどうしよう。感染のために職が見つからないHIV感染者。やけになり薬が飲めない。彼の治療はどうしよう。僕は、そういう境遇に立ったことがないので、彼らの気持ちは分からない。分からないから、想像するより他ない。だから、想像する。卵の側にたって想像する。定型的なルールにのれない人のために「卵の側」にいる医療者の価値があるはずだ。
彼らはアウトライヤーであり、従ってその定義からして、いわゆるEBMの範疇に属さない人たちである。では、アウトライヤーにはどのような医療を提供すべきか。本来、このようなマイナーなアウトライヤーの立場に立つのが、医師の医師たる理由ではないだろうか。あらゆる人がそっぽを向いても、それでも最後までその患者の側に立ち続けるのが医師の使命ではなかろうか。
というわけで、この「どのくらい」という程度の問題は、僕の医師たるレゾンデートルにかかわる重要事項で、大変真剣に論考している。お願いだから、冷やかし半分で茶々を入れたり、憶測でものを言ったり、思いつきで意味不明なコメントを叫んだり、訳の分からない陰謀論を唱えたりするのはよしてほしい。そんな暇があれば、南三陸に物資でも運んでくだされば、よろしい。
僕はこのテーマについては真剣であるがゆえに、普段のやり方は変え、たとえ匿名のコメントであっても回答したりしている。まじめにやっているからである。
ところで、匿名のコメントであっても、このTypepadではメールアドレスは入力するルールになっている。ところが、匿名コメントする人のほとんどは、虚偽のメールアドレスを入力している。このことは、彼らが「自分たちの正義を強固に主張するにもかかわらず、自分たちの都合でルールを勝手に破るのは構わない」と手前勝手に思っていることを意味する。そのような手前勝手さは、まあこのような正論を吐き続ける人の特徴なので、特に奇異には思わないけど。彼らの正義は、その程度の軽薄な正義である。
通常の場合、ブログへの匿名コメントはスルーである。実名のコメントもたいていスルーである。今回は、僕がまじめに取り組んでいる医師のあり方その物に対する命題のために、不要なくらいまじめに対応している。僕は普段はできるだけウェブ上の議論は避けたいと思っている。大学でも面倒くさい議論は回避している(本当に面倒くさいし)。しかし、いったん本気で議論を尽くすと決心したときの僕は、自分で言うのもなんだが相当うっとうしい論客である。ほとんどの人は、二度と僕とは議論なんかしたくないと思うくらい、うっとうしい。僕だって、本当はそんなうっとうしい議論はしたくないのだ。しかし、やると決めたら、徹底的に、執拗に、完膚無きまでに、あらゆる戦術と理を尽くして、うっとうしく議論するのが僕である。そのうっとうしい反駁にきちんと答える覚悟のある人は、どうぞご自由にコメントください。
投稿情報: 21:28 カテゴリー: 考え方のピットフォール | 個別ページ | コメント (9) | トラックバック (0)
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災害時には寛容さが大事であると内田樹さんはいう。その通りだと思う。災害時じゃなくても、もちろん大切である。
寛容さとは、自分とは異なる他者を否定しないという態度である。自分とは意見が違うね。でもそういう見解を許容するということである。例えば僕は同性愛者ではないが、同性愛そのものは否定しないし、優劣を争う気もない。石原都知事みたいに。
寛容さも程度問題で、なんでもかんでも許容すれば良いわけでは、もちろんない。そこで大切なのは、「どこまで許容できるか」である。集団生活を強いられている被災地の方々は、この「許容度」ののり代をどう広げることができるかが大切になるように思う。相手のことを慮り、ルールを守ることは大切だろうし、逆に少々のルール違反(ゴミの出し方間違えたとか)にあまりガミガミ言わないような「大人の度量」も大切だろう。こういうことはあまり極度にリジッドにならないほうが良い。「正しいか、正しくないか」だけを基準にしたリジッドな世界はさぞ暮らしづらかろうし、集団生活ではなおさらだ。
昨日、僕は母乳について調べて書いた。母乳が「どのくらい良いか」を調べたかったからである。そこにはーーー読んでいただければ分かるがーーー母乳について良いことしか書いていない。せいぜい、鉄が減るかも的なささいなことは書いたが、その程度。あとはみんな肯定的な情報ばかりである。世に母乳反対派とかいたとしたら(昔は多かったですよね)、「こんなバイアスのかかった記事はけしからん」と怒られていたかもしれない。しかし、なにしろテーマが「どのくらい良いか」なので、、、、
意外や意外、母乳推進する人から批判が来る。「そんなネガティブな情報を出されては困る」という。ネガティブな情報なんて出していない。母乳のよさだけを書いている。それもオーセンティックなDynamedとUpToDateで勉強して書いている。針小棒大に基礎実験を拡大解釈したり、トンデモ論(HPVワクチン不妊説みたいな)をぶちあげたりはしていないつもりだ。一個だけアンインテンショナルな訳抜けがあったがこれはこちらのヒューマンエラーで決して隠ぺいしようとしたわけではない。ご指摘を受けて訂正している(感謝)。
にもかかわらず、けしからんと批判されるのは不思議である。不本意でもある。そのくせ、内容のどこが間違っているという具体的な指摘 はない。これも不可解なことであるが、こちらが口にしなかったことばかりを批判されている。たとえば、ミルクの歴史について言及がないのはけ しからん、という批判があった。だって、それこの論考のテーマじゃないし。「魚について」というレポートを書いて、「なんで豚の話を付け加えなかったの」 と教授に減点されたら、困るでしょ。
それにしても、このなになにについて言及がないのはけしからん、という批判はよくアマゾンの書籍批評に見られるけど、なんでそんなに自分本位な要求をするのだろう。むしろ本の価値って、「私が読みたい言葉」よりも「私が読み落としていた言葉」「私が読みたくないと無意識に封じ込めていた言葉」「私が想像だにしたことがない意外な言葉」を読むことにあるのじゃないだろうか。
なるほど、アトピーや喘息の発症はミルクと差はないと書いている。しかし、これを教えてくれたのはDynamedさんであるから、僕の捏造ではない。しかも、他国でのスタディーだとちゃんと断っている。日本では適応できない可能性もにおわせている。もちろん、もしそうでないというデータがあるのなら、ちゃんと拝聴しますから、教えてほしい。それに、別に母乳でアトピーが増えるとか言うネガティブキャンベーンをはっているわけではない。他者と差がなかったというのは別に悪情報でも何でもない。他者との比較をよりどころにしないならば。
あるものを褒めるのに、なぜ他者をくさすことを前提にし、枕詞にするのだろう。日本酒がうまい、と言ったからといってそれはワインをケナスこととは同義ではない。どちらも楽しめばよいだけの話である。僕はミルクのほうがよいなんて一言も言っていない。母乳のほうが良いとちゃんと言っている。ただ、ミルクも「案外」悪くない。ミルクで育てざるを得ない親がいたとして、その人に「ああ、お前の子どもももう終わったな」なんて引導を渡すほどではない、、、そう申し上げているだけである。他者の存在が肯定されるのが、なぜこうも侮辱と捕らえられるのだろうか。
中国人や朝鮮人を軽蔑・非難しないでも日本人として誇るやり方はできるはずだ。男を批判しなくても女として立派に生きていけるはずだ(逆もまた真なり)。○○科の医者を見下げなくてもあなたの科は素晴らしい専門科である。他者をさげないと自らのレゾンデートルが得られない。これが差別意識である。そして不寛容である。自分が差別主義者であると主張する人は一人もいない。白人100人に訊いても「俺は黒人差別者だ」という人は0人である。意図的にウソをついているわけではない。自分でも差別者だとはかんがえていない。しかし、出会い系サイトで黒人を指名する白人はごくわずかだという。差別と不寛容は我々の社会に根強く、そして恐ろしく幅広く普遍的に存在している。そしてほとんどの場合、当人はそうと自覚していない。
それにしても、「知識ではなく、語り口が大事ですよ」と書いたら、うるせえ、お前は何も知識ないだろ、的な罵倒で返されたのは驚いた。なんでこんな「語るにおちる」シンプルなエラーを犯すのだろう。人が正しさという錦の御旗を握り、居丈高に語るようになると、こういうピットフォールがある。自分が正しいことを言っているなあ、と思ったらよくよく注意しなきゃいかんな、と強く反省したのだった。僕もこの手の失敗はたくさんやってきたので。
投稿情報: 07:39 カテゴリー: 考え方のピットフォール | 個別ページ | コメント (4) | トラックバック (0)
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この文章はいろいろなご意見を聞いて訂正を重ねています。最後に直したのは、4/2の午前8時31分です。
放射線の素人である医者が放射線について考えてみた。放射線が人体に危険性はあるか?もちろん、ある。問題はそこではない。「どのくらい」危険があるか?である。調べる限り、放射線のリスクは「案外」小さい(少なくとも僕が想像していたよりははるかに小さかった)。こういう「語り口」がリスクを語る時は重要だ。
次に、母乳について考えてみた。母乳の素人である内科医が母乳について考える。
exclusive breastfeeding, つまり母乳だけで育て、母乳以外は一切使わないこと(ビタミン、ミネラル、医薬品を除く)が生後6ヶ月間は推奨されている。推奨しているのは世界保健機関(WHO)、ユニセフ、アメリカ小児科学会(AAP)、アメリカ家庭医学会(AAFP)、アメリカ産婦人科学会(ACOG)、母乳医学協会(?)(ABM)である。
ウェブで調べた限りは日本小児科学会も母乳育児を「推進」しているらしいが、詳細は見つけられなかった。他の学会についても同様。
利点
母乳だけで育てると、消化管や呼吸器感染症を減らすことができるかもしれない。ただし、これはほとんど観察研究に基づく。
イランとナイジェリアのスタディーでは、母乳だけで育てた場合と母乳・人工乳混合の場合は呼吸器感染症が前者のほうが少なかった。
どちらも成長には違いがなかった。
母乳だけで育てると鉄が足りなくなるかもしれない(ただし途上国)
母乳だけで育てると母の生理再開が遅れるかもしれない。(ホンジュラス、バングラデシュ、セネガルのスタディー)
母乳だけで育てると母親の体重減少が早いかもしれない(ホンジュラスのスタディー)
アトピー性皮膚炎、喘息などのリスクについては差がなし(フィンランド、オーストラリア、ベラルーシのスタディー)
最初の三週間を母乳だけで育てると、12週後も母乳が継続していやすい。
スキンコンタクトは母乳だけで育てることにつながりやすい。
ケース・コントロールスタディーを集めると、母乳で育てると(この場合はexclusiveではない)侵襲性乳癌のリスクが減る。5万人フォローで、母乳を12ヶ月で「相対リスク」が4.3%減る。
母乳で骨粗しょう症が減るかは不明
アメリカのスタディーでは高血圧(OR 0.88)、糖尿病(OR 0.80)、脂質異常(0.81)、心血管性疾患(0.91)が少なく、肥満には関係ない。Obstet Gynecol. 2009;113(5):974.ただし、これはexclusive lactationではない。母親のこれらのリスクがアメリカより低い日本では?
アメリカのスタディーでは母乳(exclusiveにあらず)で肥満が減るかもというスタディーがある。JAMA. 2001;285(19):2461.そうではない、というベラルーシのスタディーもある。Am J Clin Nutr. 2007;86(6):1717.
14のケース・コントロールスタディーを用いたメタ分析では、母乳(exclusiveにあらず)は白血病(ALL, AML)を減らす。Public Health Rep. 2004;119(6):521.
小児の癌全体も減る。これもケース・コントロールスタディー。 (odds ratio = 0.92, 95% Cl 0.84-1.00, P = 0.05) Br J Cancer. 2001;85(11):1685.
母乳で心血管疾患の「リスクファクター」が減る。例えばCRPが下がる。
糖尿病の発症がへるかも、、
あと、認知機能や視力、聴力、ストレス低下につながるかも、、、という情報があるがこのへんは微妙。
というわけで、母乳は母児ともに利益を与え、(その経済効果も加味すると)一般的にはぜひ推奨されるべきだと僕は思う。思うけれど、その利益は「案外」小さい。母乳で育てられなかったからといって親を責めるほどでもないし、母乳で育てられないと幸せになれないというほどでもない。一部の本がほのめかすように、母乳以外のものを与えないとダメな母親、、、みたいなのはちょっと違うんじゃないか、、、特に、exclusive breastfeedingの利益は(僕が想像していたよりも)小さいものだった。
母乳をエンカレッジするのは大事だ。けれど、そうしない選択も否定するほどでもないな、、、と僕は思う。「それはそれで、やり方がありますよ」。そういう言い方もあってよいと思う。こういう良い意味での「二枚舌」が大切だと思う。
今気がついたけれど、こういう「口調」って専門家以外が語ったほうが案外上手くいったりして、、、あくまで思いつきだけど。
参照
Exclusive breastfeeding: Dynamed. viewed April 2, 2011
Maternal and economic benefits of breastfeeding. UpToDate 19.1 viewed April 2, 2011
Infants benefits of breastfeeding. UpToDate 19.1 viewed April 2, 2011
投稿情報: 06:15 カテゴリー: 考え方のピットフォール | 個別ページ | コメント (3) | トラックバック (0)
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福島原発に関する報道があっちにいったりこっちにいったりして、分かりにくくなっている。原発という建築物そのものの安定性、耐震、対津波防御能、周辺地域の放射性物質のリスク、遠隔地の水や食料のリスク、東京電力の構造やら癒着疑い、安全で間疑惑、社長が入院?したやらのゴシップ系のニュースなどが混在してしまっている。医者の僕にはこれらを議論する能力はなく、また(あんまり)興味もない。
僕が吟味したかったのは、「放射線」がもたらしうる健康被害である。
ここでは、自分の整理のためにも原発がもたらす(可能性のある)健康リスクについてだけ抽出してまとめた。ただし、僕はこの業界の専門家ではないので、「こうするべきだ」的なアドバイスはできない。この内容は各自の医療や安全の判断には責任は持てない(残念ながら)。
ただ、基準を超えるヨウ素がどこから見つかった、どこからプルトニウムが見つかった、みたいな報道を何十回聞かされても一般の人はビビるだけで意味が分からないと思うから、「意味を問う」参考になるとうれしい。なお、もしこの内容に間違いを見つけた人は教えてくださるとうれしいです。本稿は間違いが指摘されるたびに修正します。
最終更新日 2011年4月1日(もちろん、インテンショナルな「うそ」はまぜてません)
基本的知識
人体に影響を与える放射線とは
電離放射線とそうでない放射線(非電離放射線)は分けて考えなければならない。電離放射線にはX線、ガンマ線、陽子ビーム(放射線療法に用いる)などがある。非電離放射線は熱エネルギーをもたらす。可視光線、紫外線、赤外線、ラジオ波、マイクロウェーブ(電子レンジ)がこれにあたる。日焼けや電子レンジによる加熱は非電離放射線の効果による。電離放射線は人の細胞に作用し、核酸やタンパク質にダメージを起こす。一般に僕らが「放射線」として問題にするのはしたがって、電離放射線のことだ。
放射能
放射能とは放射線を出す能力である。
放射線
複数の種類がある。
アルファ線はヘリウム原子核であり、陽子2個と中性子2個からなる。したがってアルファ粒子とも呼ぶ。プルトニウムやウランが出す。荷重係数が20なので(後述)人体への影響は大きくなる。その代わりアルファ線は紙や数cmの空気層で止まるため、外部からの被爆はしづらい。むしろ傷から入るものや吸入が問題になる。ガイガーカウンターでは検出できない。
ベータ線(ベータ粒子)は電子であり、アルファ線より小さい。遮断はアルファ線よりは困難であるが、プラスチック板1cm程度である。人間の皮膚を貫き、とくに皮膚の薄い小児ではそうである。遮断がなくても距離的には数メートルしかとばない。ヨウ素やセシウムなどからでてくる。ガイガーカウンターで検出可能。
中性子 電荷がない粒子であり、それゆえ組織通過性が高い。核爆発があると放出され、原子にぶつかるとそこからアルファ線やベータ線をだしたりガンマ線を増やすことができる。
電磁波であるX線やガンマ線(両者の違いは、ガンマ線のほうが波長が短い)は何メートルもの距離におよび、透過力は大きく、鉛やコンクリートなどが必要(レントゲンは人体を通過するから骨が見えるのですね)。ガイガーカウンターで検出可能
放射性核種
原発の原子炉と使用済み燃料からはさまざまな放射性核種がでてくる。
特に重要とされるものは以下の通り。半減期とはその物質の量が半分になるのに要する時間である。ヨウ素の場合、半減期の10倍、80日も経つとほとんどなくなってしまう。逆に、プルトニウムなどは半減期が何万年単位であり、僕らが死んでもなくならない。
半減期 放射線
ヨウ素 Iodine 8日 ベータ、ガンマ
セシウム Cesium 30年 ベータ、ガンマ
セリウム Cerium 285日 ベータ
コバルト Cobalt 5年 ガンマ
プルトニウム Plutonium とっても長い アルファ
ウラン Uranium とっても長い アルファ ガンマ
ストロンチウム Strontium 28年 ベータ
トリチウム Tritium 12年 ベータ
単位について
キュリー(curie, Ci)。キュリー夫妻で有名なキュリー。単位時間あたりに放射性崩壊する原子の量。1キュリーとは、ラジウム1gにおいて1秒に崩壊する原子核の量と定義された。1秒3.7x10の10乗個の放射性物質の量と同じである。同じ概念を表現する単位にベクレル(Becquerel, Bq)があり、1ベクレルは1秒あたり1個の原子核が崩壊を行う量に等しい。つまり、1キュリー=3.7x10の10乗ベクレルである。ベクレルさんはフランスの物理学者。
radはradiation absorbed doseである。人体組織1gにおいて吸収される電離放射線の量。1radは100erg(エルグというエネルギー単位)を1gの組織に吸収させる量と定義される。1グレイ(1Grey, gy)は100radに等しい。
レム(Roentgen equivalent in man, rem)。吸収された放射線の量(radやGy)に各放射線の生物学的影響を加味したもの。例えば、同じ1Gyの放射線でもアルファ線とガンマ線では人体に与える影響が異なるので、それぞれ放射線荷重係数をかけて計算する。アルファ線は影響が大きく荷重係数が20。その他(X線、ベータ線、ガンマ線)は荷重係数が1。中性子はエネルギーにより5−20と変動する。100remが1シーベルト(1 Sievert, Sv)に相当する。
実際にはシーベルトとグレイを用いることが多いので、以下両者を用いる。両者の関係はすでに述べたように
Sv=放射線荷重係数xGy
で表される。ということは、多くの場合(X線やガンマ線)ではSvとGyは同じ値になる。アルファ線を出すようなプルトニウムやウランの場合、荷重係数が20なので人体への影響は大きい。この話はした。
シーベルトの1000分の1の単位がミリシーベルト(mSv)、さらに1000分の1(つまりシーベルトの100万分の1)がマイクロシーベルト(μSv)である。単位は大事である。多くの人は1000とか10000という「数字」に注目してしまうが、注目すべきはむしろ「単位」である。なお、mSv/時とあれば、時間あたりのミリシーベルトを意味し、μSv/時とあれば時間あたりのマイクロシーベルトを意味する。人体への影響は、被曝をうけた「総放射線量」が重要なので、mSv/時の場合は、
mSv/時 x 総被曝時間
にて被曝量を計算する必要がある。ただし、同じ被曝量でも短時間に被曝するほうが長時間にわたりじわじわ被曝するより影響が大きい(らしい)。
以下、特に断らない限りmGy, mSvを用いて表記する。
放射線曝露(被曝)
人体は年間およそ2.4-3.6mSv(0.0024Sv)の自然放射線にさらされている。地下にあるラドンなどから放射線が出るのである。また、病院でよく撮られる1回の胸部レントゲン写真が0.06-0.3mSv、胸のCTやPETという検査では7から8mSV、飛行機で海外旅行に行くと高いところで宇宙線にさらされるのでだいたい0.2mSvの放射線被曝がある。心臓カテーテルをやるような医師は年間6mSv程度の被曝がある。CTやPETが必要な重症患者では年間10回以上のCTを撮ることもあり、その曝露量は60mSvかそれ以上になる。
人体への影響は「何mSv以上だとよいとかダメ」というふうに考えないほうが良い。理由その1は、放射線被曝は「程度問題」だからである。(概して)被曝量が増えるとリスクが高まり、被曝量が少ないとリスクが低下する(例外については後述)。例えば、借金の場合、1000円の借金と10万円の借金では後者のほうが痛いに決まっている。しかし、前者が「無意味」ということはない。そこには1000円分の意味がある。とはいえ、1円ならほとんどの人は無視するだろう(それを「借金」とは呼ぶまい)。タバコもそうで、毎日10本と毎日20本では後者のほうがリスクが高いが前者なら「安全」というわけではない。前者のほうが「まし」というだけだ。
リスクを語る場合、「リスクがある」「ない」という語り口はよくない。「どのくらい」リスクがあるか、を語るのが大切である。そして、こと放射線に関する限り、後述するようにそのリスクの見積もりは「よく分からない」のである。
いずれにしても通常は100mSv以内の曝露なら心配ないと考えられる。年に「1本」タバコを吸うのが人体にはほとんど影響しないのと同じようなものだ。
では100mSv以上だと「即座に」だめかというとそうでもない。最初に人体に影響があるのが骨髄抑制だが、これが100-500mSvで起きる。しかし、骨髄抑制が起きたからすぐに人が死ぬとかいうわけでもない。
後述するように、国際放射線防護委員会(ICRP)が勧告する許容される被曝の基準は、一般人で20mSv/年である。では、それ以上が全くナンセンスにダメかという塗装ではない。例えば、原発事故時のレスキュー・ワーカーのそれでは500-1000mSvとされている。当然である。一般人は「火事場の人家」に突っ込むことは許容されないが消防士には「必要」な行為である。その消防士でもそれなりの安全が必要であり、その「安全度」は民間人よりやや低い。低いが、理にかなった程度に低いはずである。同様に、500-1000mSvはーーー火災の家に赴くことと同様一般人には奨められない放射線量であるがーーーその道のプロには、ある程度合意が得られる量だと考えられている(らしい)。
よく、アメリカのなんとか機関の基準と日本のどこかの基準が合致していない、どっちが正しいか、のような議論があるが、せん無い議論である。放射線被曝のリスクは線形であり(少なくともそういう要素はあり)、「これ以上なら絶対安全」「これ以下は絶対危険」と分断できるものではない。リスクをどこまで許容できるか。これを決定するのは科学だけではなく、そこには恣意性がある。アメリカ人は銃のリスクを日本人よりも許容している。日本人は(今のところ)細菌性髄膜炎のリスクをアメリカ人よりも許容している。両者にあるのは価値観の違い、有り体に言えば好き嫌いの問題である。
とはいえ、これ以上はさすがに無理っしょ、というエリアがあるのもまた事実である。アメリカでも学校での銃の乱射を許容したりはしない。
これ以上の被曝で「人命」にかなり影響があると言われるのが1000ー2000mGy(多くの場合、mSvに同じ)の放射線量である。3000-4000mGyの被爆だとほとんど致死的になる。広島原爆での生存できたのは3000mGy未満の被曝の場合だった。とはいえ、これは被曝を受ける放射線がどれだけ一時に与えられたか、じわじわ少しずつ与えられたかによっても違うし、曝露源からの距離によっても異なるらしい。上記の遮蔽物の有無によっても異なる。
基準値について
各機関が定める「基準値」とは規則で定めた値であり、人体に対する健康影響とは必ずしも直接的に決定的な基準ではない。先に述べたように、「この線を越えると危険」「それを越えなければ安全」という世界観では放射線は(そしてほとんどの医療の問題は)語れないのである。あくまでも、基準値は「目安」であり、「基準値を超えたうんたら」いう報道にヒステリックに反応する必要はないと思う。また、恣意的な線引きなので人によって基準値が異なるのも奇異なことではなく、むしろ当然なことである。
この問題をかんがえるとき、僕が想起するのは賞味期限である。賞味期限は製造者が安全性や味・風味等の全ての品質が維持されると保証する期限を示す日時であり、「安全性」の保証とは関係ない日時である。つまり、賞味期限を過ぎると味は落ちるかもしれないが、体に悪影響を及ぼすとは限らない(ただし、安全だという保証もないが)。
つまり、各基準値を超えたからといってそれが則人体に悪影響を及ぼすことを意味していない。多くの場合は、逆である。
水道水の「食品衛生法」に基づく乳児の引用暫定基準は100Bq/kgである。原子力安全委員会が定めた飲食物制限に関する指標値は
放射性ヨウ素(飲料水)で300Bq/kg
放射性セシウムで200Bq/kg
である。
セシウムのほうが基準値が低いのは半減期が長いためであろう。この数字は国際放射線防護委員会(ICRP)が勧告する放射線防護の基準(セシウムで5mSv/年、ヨウ素で50mSv/年、ただし僕が確認した最新の資料では20mSv/年でこれを最終的に1mSv/年まで減らすことを勧告しているが、、、)基準に算出したとされる。日本医学放射線学会は基準値を超えるヨウ素が検出された場合でも飲用に差し支えないと勧告している。
ベクレルとシーベルトの換算は難しいが
http://testpage.jp/m/tool/bq_sv.php
で簡単に計算できる。例えば、基準値の100Bq/年で放射性物質がヨウ素の場合、毎日1kgを365日摂取しても全体の被曝量は0.803mSvに過ぎず、安全粋の100mSvの100分の1以下。人体にはまったく影響がないと考えるべきだ。ちなみに、アメリカの食品薬品管理局(FDA)は食品の基準値をヨウ素で170 Bq/kgとしている。
スリーマイル島、チェルノブイリ
スリーマイル島での事故では人への放射線曝露は多くて70mrem程度であり、被害者はゼロであった。
チェルノブイリでは、初期にヨウ素、後にセシウム(Cs 137, Cs 134), ストロンチウム(St 90)などの環境汚染があった。28人が6000mGyを越える被曝があり、23人が4000-6000mGy、53人が2000-4000mGyの被爆をした。半径30km以内にいた135000人が避難した。そのうち24000人が平均450mGyの被曝があった。残りもおよそ30-60mGyの被曝があった。そして、115人の急性放射線症候群(後述)がおき、28人が死亡した。
長期的なリスクとして、今でも甲状腺癌、白血病や奇形のリスクがロシア内外で懸念されている。
長崎大学の調査によると、150km離れたところにいる1986年生まれのベラルーシの小児12129人のフォローで12−14年後、32人が甲状腺癌を発祥している。その後生まれた9472人のフォローでは発症ゼロ。オッズ比は121である(Shibata Y et al. Lancet 2001; 358:1965)。(半減期の比較的短い)ヨウ素曝露が直接ある場合(短期)にリスクが高いかもしれない。
発ガンリスクはあるのか
放射線被曝と発ガンのリスクについては、様々な交絡因子があるため分かりづらくなっている。例えば、喫煙が発ガンと関係するのは良く知られている。喫煙者が放射線に曝露された場合、どこからが喫煙の影響でどこまでが放射線の影響かを峻別するのは難しい。癌の発症が年単位のレベルで「遅れて」発症するのも問題を分かりにくくしている。
発癌については「線形で、閾値のない仮説」というのがある。これは「何mSv以上だとだめで、それ以下だと安全」という境界線がなく、被曝が多ければ多いほどリスクは少しずつ上がっていく、、というものである。例えて言うと、タバコを1日20本吸っていると発ガンのリスクは高いが、18本だと大丈夫ということはない。5本だと大丈夫ということもない。ただ、5本よりも20本のほうがリスクは高い。日本の原爆のデータだと甲状腺癌、肺癌、乳癌が関連しているのではないか、という意見があるが、データは後ろ向きに得られたもので決定的ではない。白血病は低い曝露では発生しない(純粋に線形ではない)のではと考えられているらしい。逆に、あまり高い曝露になると細胞死が起きてしまうので癌化のリスクは下がるらしい。
そうではなく、ある低い放射線曝露であれば発癌の危険はないという仮説もある(つまり、絶対的に線形ではない)。100mSv以下の被曝なら発癌のリスクはなく、むしろ放射線による刺激で癌はおきにくくなるのでは、という説もある。いずれも仮説(hypotheses)であり、確固たる真理(科学的事実、僕ら医者がエビデンスと俗に呼ぶもの)ではない。
とはいえ、広島、長崎の原爆、チェルノブイリでの調査はいずれも被曝と発癌についてはっきりしたデータを提供できていない。戦術のベラルーシの甲状腺癌の調査が唯一、僕がある程度納得したリスクのデータだ。
例えば、成人についてはチェルノブイリと甲状腺癌発症の関係ははっきりしない。小児についても先述の論文以外はいずれも発症記録だけで「増加」を示したものはほとんどない。因果関係に至ってはまったく不明だ。
小児、成人とも白血病の増加についても不明である(ほとんどすべてdescriptive studies)。意外なほどにこの手の領域については良質の研究ができていない(冷静に考えてみたら、介入試験が出来ないのだから当たり前なのかもしれないけれど)。
甲状腺癌はヨウ素を摂取することで、甲状腺に放射性ヨウ素が集積するのをブロックして予防となることがある。日本人はもともとヨウ素摂取量が多いのだが、僕らがさらに摂取する効果については不明である。
放射線被曝という不安だけで吐き気や下痢などの症状を起こすことがある。このことは知っておいたほうが良い。メディアの皆さんにはとくに知っていただきたい。
その他の健康リスク
10-15mGyの曝露でも精子形成能力が落ちることがある。5000mSvという大量の被曝で男女ともに不妊となりやすい。
200mGyの曝露で目に白内障が起きやすくなる。
急性放射線症候群(ARS)
急性症状は500mGy以上の曝露で起きやすい。以下の三系統の症状を起こすが、見ての通りかなりの被曝を要する。
骨髄症候群 700mGy以上から起きやすい。軽症なら300mGyでも。
消化器症状 10000mGy以上という大量の曝露で起きやすい。6000mGyで起きることも。
心血管系、中枢神経 50000mGy以上で。少なくとも2000mGyで起きることも。
通常3日で死に至る。
この他、皮膚放射線症候群を伴うと言われている。ベータ線やX線の被曝で起きやすい皮膚所見。炎症や紅斑が起きやすい。
ちなみに
広島の原爆にはウラン、長崎の原爆にはプルトニウムが入っていたが、拡散して現在当地にはほとんどこれら半減期の長い放射性物質は検出されないとされている。
プルトニウムはよく人体に甚大な被害を与えると報じられるが、その人体への影響は驚くほど分かっていない。半減期がやたらに長いので恐ろしいイメージがあるが、アルファ線ですぐ遮断されるので体外被曝では人体への影響は小さいとされる。犬の実験では飲ませても大丈夫だったらしい。肺に吸入してしまうと長い半減期の故に発癌のリスクが高いが、人体への実例はぼくは見つけられなかった。70年代、80年代に原発職員が傷口にプルトニウム被曝を事例があり、キレート療法の後に長くフォローされているが、2010年の現在とくに健康問題はなかったという報告をPubMedに探すことができる。
結語
大量の放射線を一時に浴びるのは致死的になり得る。このことは明らかだ。被曝の長期的な影響は不妊や白内障の原因になる。このこともよい。その他については、不明な点が多くはっきりしたことは言えない。危険だと騒ぐことも、安全だと騒ぐことも妥当ではないように僕には思える。小児の甲状腺癌については若干の懸念すべきデータがある。それは150kmという割と離れた地域でもそうだった。100mSv以下の被曝について特にことさらに心配する材料を僕は持っていない。
参照
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Wingard JR and Dainiak N. Treatment of radiation injury in the adult. UpToDate 19.1. Last updated March 16 2011.
Daniak N. Biology and clinical features of radiation injury in adults. UpToDate 19.1. Last updated March 29 2011.
Gerber TC and Einstein AJ. Radiation dose and risk of malignancy from cardiovascular imaging. UpToDate 19.1. Last updated November 17 2010.
Allen JY and Endom EE. Clinical features of radiation exposure in children. UpToDate 19.1. Last updated March 15 2010.
社団法人 日本医学放射線学会 妊娠されている方、子どもを持つご家族の方へ-水道水の健康影響について-(2011/3/24) http://www.radiology.jp/modules/news/article.php?storyid=912
東京都 水道水の放射能測定結果について (2011/3/23)http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2011/03/20l3nf00.htm
FDA Radiation Safety http://www.fda.gov/NewsEvents/PublicHealthFocus/ucm247403.htm last viewed April 1, 2011
CDC. Acute Radiation Syndrome: A Fact Sheet for Physicians. http://www.bt.cdc.gov/radiation/arsphysicianfactsheet.asp. last viewed April 1, 2011
WHO Japan nuclear concerns http://www.who.int/hac/crises/jpn/en/index.html, last viewed April 1, 2011
財団法人放射線影響研究所 http://www.rerf.or.jp/general/qa/qa12.html last viewed. April 1. 2011
INTERNATIONAL COMMISSION ON RADIOLOGICAL PROTECTION March 21, 2011 Fukushima Nuclear Power Plant Accident ICRP ref: 4847-5603-4313
Moysich KB et al. Chernobyl-related ionising radiation exposure and cancer risk: an epidemiological review. Lancet Oncol 2002; 3: 269–79
Shibata Y et al. 15 years after Chernobyl: new evidence of thyroid cancer. Lancet 2001; 358:1965.
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