もう20年近く前の話になるが、ニューヨーク市などで炭疽菌を用いた生物兵器テロが発生した。その対応に忙殺された話は「バイオテロと医師たち」で述べたので繰り返さない。
実は2001年のこの事件よりずっと前、1990年代からバイオテロの懸念はあった。JAMAなどで特集シリーズをやったりして僕らも基礎知識をつけていたわけだが、蓋を開けてみると、アメリカ市民が「案外」パニックに脆弱だったりして、その対応はすったもんだした。COVIDもそうだけど、アメリカ社会には「理想と現実」の乖離がある。これも拙著で繰り返し指摘しているところだ。
ときに、その炭疽菌テロが起きているさなかに、「次は天然痘じゃないか」という議論が起きた。天然痘ウイルスを使った人為的殺戮行為は南北アメリカ大陸で事例がある。だから、テロリストがこのウイルスをテロ行為に使うという想定は十分に「起こりうる」想定だ。よって、医療従事者、特に感染対応をする医療者は天然痘ワクチンの接種を受けることとなった。僕自身、肩にサスマタのような特殊な天然痘ワクチン接種を受けた。
問題は、天然痘によるテロ行為は「まだ起きたことがない事象」であり、「どのくらいの規模になるか予見不可能な想定」に過ぎないということだ。ワクチンには一定頻度で副作用が発生する。接種規模が大きくなればなるほど、副作用の被害は増える。よって、ワクチンの利益は疾病予防の利得と副作用の不利益とのバランス関係なのだが、「まだ起きていない」事象に対してそのバランスを取るのは困難だ。
そこで用いられたのが「リング」という戦略だ。まず一定のワクチン接種を行い、いざテロ行為が起きて感染被害が広がったら、その広がりに合わせてワクチン接種規模も拡大する。このような動的概念でリスクと利益のバランスを取ろうとしたのである。
https://www.cdc.gov/smallpox/bioterrorism-response-planning/public-health/ring-vaccination.html
この「リング」という概念は予防接種のみならず、他の問題にも応用できる。例えば、クラスター対策だ。クラスター対策をあまり強固に広範囲にやってしまうと医療機関や福祉の機能がガタ落ちする。かといって、脆弱な対策で感染拡大を傍観するのは最悪の選択肢だ。よって、クラスター対策は本来はクラスターの規模や感染拡大のスピードを見ながら動的に強化、緩和の微調整が必要になる。
が、多くの保健所はプロトコルベースの仕事を好み、これまでアウトカムベースの仕事をした経験がほとんどない。「クラスターを収束させる」がアウトカムだが、それとは関係なく、「この人はマスクしてたし、濃厚接触者には当たらない」とチェックリストを埋めただけで仕事をしたこと、にしてしまう事例も珍しくない。もし感染が拡大しているときはそういう事前のプロトコルは排除して、さらに接触者の範囲を広げていくのが定石だ。VOC対策はこうやって「封じ込め」というアウトカムを目指すべきであった。目指さなかったけど。
サッカーにおいて走行距離は大事な概念だが、これはあくまで手段であって目的ではない。「今日の試合はみんな、10km走ること」なんて指令を出す監督がいるだろうか。そのために、疲れたストライカーがシュートを外しまくっても、「すでに10km走った」と試合の途中で止まってしまうプレイヤーがいたとしても?プロトコルベースの仕事は、スタティックなルーティンワークのときはそこそこ有効だし、その線でいけば日本のそれは世界でもトップレベルに質が高い。が、アウトカムベースではないためにしばしばそれは「お役所仕事」になるし、緊急時には機能不全に陥りやすい。
「変異株」拡大の当初、「あれはクラスター内の株を数えているので、そんなに感染拡大はしていない」という説明がなされたが、そもそもクラスター内だと分かっているなら、そんな全ゲノム解析なんてせずに「どうせ変異株に決まっている」と、他に検査能力を転じるべきだったのだ。そういう発想ができないところがプロトコルベースの仕事の弱いところで、「とりあえず、試合で10km走れ」と指示する質の低い監督のようなものだ。無駄とわかっている仕事を延々と続けて疲労が蓄積し、その結果クラスター対策そのものを放棄している保健所が多いわけで、なぜ保健所長は部下の適正な仕事や体力温存のための戦略を出さないのか、国はそれを励行しないのか、訝しむ。
いや、本当は訝しくは思わない。どちらかというと中央も地方も「しんどい思いをして、残業して、汗をかいて、歯を食いしばってなければ仕事ではない」というブラック体質に染まっており、特にその概念は年配の上層部では固着していて修正不可能にまでなっている。仕事の効率化は悪、という概念が染み付いているわけで、AIの活用などできるわけがないのである。
話を戻す。天然痘ワクチン接種は「まだ起きていないこと」を想定したリスクマネジメントの一環だ。このようにprospectiveに危機を想定するのは、アメリカの得意とするところである。数々の未曾有の危機を体験してきたから、過去を基準に未来を決めるのは愚かである、という概念が骨の髄まで染み付いているのだろう。
翻って日本は「起きたことから対応策を決める」retrospectiveな考えのほうが好きだ。「夜の街で感染」という事例を根拠に夜の街対策をし、「昼のカラオケ」に対して昼のカラオケ対策をする。起こったことに対応するので、後手後手になるのは必然だ。そして「まだ起きていないこと」は「仮定の話は差し控える」と議論そのものを否定する。オリンピックの中止が議論できないのは、よく考えてみれば当然の話かもしれない。中国や北朝鮮が攻めてきたときは大丈夫なのだろうか。
ぼくは最初、「仮定の話はできない」という政治家の常套句(さすがに、最近は使わなくなったが)に少々憤慨していた。「仮定の話をしつくす」のがリスクマネジメントの定石だからだ。が、最近は、ちょっと勘違いしていたのかな、と反省している。ぼくは当初、「One should not discuss any theoretical concerns」という意味で理解していた。三人称の話だと思っていたのだ。が、どうもそうではないらしい。「I am not able to discuss any theoretical concerns」という一人称の話らしい、と気づいたのだ。なるほど、それならば理解はできる。
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