本論の理路は長い(あと、やや分かりにくい)ので、お手数ですが端折らず最後までお読みください。
以前、「成人式には行かないで」というブログを書いた。同様に、アスリーツに「オリンピックにはこないで」というメッセージを出せばよい、というご意見を頂いた。
本稿のテーマは「オリンピックは開催できるか」だが、その前に「アスリーツに来ないで」というべきかについてコメントする。
アスリーツにオリンピックに来ないで、というべきではない。
成人式に行かないでほしい、という意見は、新成人が(しばしば)都会から田舎に移動し、旧友たちと旧交を温め、実家に帰り、家族親類と久方ぶりに再会する、というシナリオが容易に想定できたからだ。それは感染リスクの拡大のみならず、ハイリスクな高齢者への感染の広がりのリスク増加を意味する。成人式なんかに出なくたって成人はする。ぼくも外国にいたので成人式には出なかった。成人式に出る「価値」は各人各様であろうが、少なくとも自分や友人の親、親類の命を危険にさらしてまででるほどの式ではなかろう、と僕は思う。よって、この時代に成人式なんてやらないほうがよいと思ったし、出るべきでもないと考えた。今もそう考えている。
オリンピアンたちの場合は事情が異なる。彼らは(少なくともオリンピックというスキーム上は)高齢の家族たちと面会したりはしない。バブルの中で繰り返し検査をしながら監視されての活動だ。選手の殆どは、若くて、健康で、肥満体ではない。もちろん、例外的に免疫抑制状態の方もおいでだろうが、ごく少数派に属する。選手たちの生命リスクは高くない。彼らからの感染広がりのリスクもそれほど高くはない。
そして、ここからは価値判断の問題になるが、多くのアスリーツにとって、オリンピックは自分の人生をかけた超重大イベントだ。場合によっては、自分の命よりも大事、という人だっているだろう。登山家に「山に登るのは事故が危ないから、登るな」とアドバイスするのは、旅行医学の専門家が行うべきプロフェッショナルなアドバイスではない。我々は「山に登りたい」という登山家の価値観に寄り添って(山に登るという条件下での)健康アドバイスをせねばならないからだ。同様の理由でアスリーツに「オリンピックに出るな」はプロの医者のアドバイスとは言えない。ぼくはそう思う(ごく一部の例外はあるが、ここでは論じない)。
だから、選手たちに「辞退しろ」。オリンピックにくるな、と主張する気はぼくにはない。
問題は、関係スタッフ、来賓、メディア、ボランティアたちだ。
彼らの健康リスクはアスリーツよりも高い。年齢が高い人も多いし、肥満体の人も多いだろう(肥満はコロナ重症リスクだ)。その生命リスクは相対的に上がる。対して、彼らがオリンピックに参加する価値は、少なくともアスリーツのそれよりは高くない。リスクは相対的にジャッジするのが原則であり、関係スタッフ、来賓、メディア、ボランティアたち(医療ボランティア含む)がオリンピックに参加する意義は相対的には、大きくない。
そして、彼らからの感染拡大リスクもアスリーツのそれよりは大きい。報道によれば、選手たちはワクチン接種をオファーされ、検査を毎日受け、バブルに入り、活動を制限されるが、同じことを来賓やメディアやボランティアたちに義務化するであろうか。もししないのであれば、来賓が泊まったホテルや外食したレストランを介して海外からの新たな変異株が輸入されたり、いまだにぶら下がり取材という感染対策の原則をガン無視した奇異な行動を取り続けるメディアがクラスターを作ったり、東京に集まったボランティアたちが、大会後に地元に新たなウイルスを持ち込んだりする事例が十分想定される。
そういうことが起きる、と予言しているのではない。そういうことが起きうる可能性は十分に高い、と申し上げている。リスクマネジメントの世界では十分にPlausibilityやPossibilityの高い懸念事項は対策しなければならない。「テロが起きるとは限らない(あるいはエビデンスはない)」という根拠でテロ対策を放棄するのは愚かである。
このことは、現在行われている「聖火リレー」についても同様の原則から議論できるだろう。近代オリンピックで聖火リレーを始めたのは、1936年のベルリン・オリンピックからで、この大会はよく知られているように政治的プロパガンダ的側面の非常に大きな大会だった。それ以前は特に聖火リレーをやっていなかったわけで、聖火リレーはオリンピックになくてはならない「必然」ではない。その必然性に乏しいリレーを、不要不急の外出をするな、というメッセージが日本各所で出されているさなかに強行するのは、リスク・コミュニケーション的にはまったく不可解なことだ。むしろ、「今は緊急事態宣言も出ているので、安全なオリンピックのため、感染者を減らすためにリレーは割愛します」というメッセージを出したほうが、政治家やIOCたちの主張に対する国民の共感も得やすかっただろう。正直、スポンサーたちの意思決定プロセスも不可解だ。コカ・コーラのロゴがついたバスでどんちゃん騒ぎをしながらリレーをする映像を見ても、多くの人たちは反感しか感じないのではなかろうか。なぜ、わざわざ企業イメージを毀損する行為に加担するのか、理解し難い。
さて、本題に入る。「オリンピックは開催できるか」。ぼくは「できる」と考える。
この議論は、多くの場合順番を間違えていると僕は思う。「オリンピックは中止すべきだ」という意見の多くは、「中止すべき」という結論ありきで議論を始めており、「オリンピックが開催できない根拠」を丁寧に論じていない。どちらかというと、現在国内外の世論は「開催反対」というムードに流れているから、そのムードに同調して、「開催なんてできてたまるか」というシュプレヒコールを送っているだけなのだ。リスク・アセスメントもリスク・マネジメントも無視して「とにかく反対」という論調は、多くの賛同者を生んではいるだろうが、議論のプロセスとしては適切ではない。
全く同じ理由で政府や各委員会たちの「なんとしてでも開催」という意見も間違いだ。彼らもまた、「開催できる根拠」を丁寧に論じていない。論じられているのは選手のことばかりだが、前述のようにアスリーツの問題は問題の根幹ではない。「とにかく開催」もまた、同じ理由で不適切なのだ。
同調圧力や空気が論調を支配する日本社会において、「ムード」だけを根拠に賛否を論じるのは極めて危険だ。この場合、おそらくは開催前までに反対論者のムード作りが一所懸命行われるだろう。そのムードに耐えきれなくなればIOCや政府はオリンピックを断念するだろうし、逆に「そのムードに耐えさえすれば」開催を強行するだろう。
強行した場合に日本で起きそうなことは容易に予想ができる。スポンサーたるメディアはオリンピックムードをここぞとばかりに盛り上げにかかる。テレビも新聞も全てのメディアがオリンピック一色になる。国民もそれに同調する。ムードは一転し、今度は全国民的にオリンピックの話しかしなくなる。日本人が金メダルでも取ればもう、このムードは決定的だ。そして、この間に「コロナの危険が」とでも一言でも発すれば、「お前はこのムードをぶち壊しにするのか」「せっかく、金メダルをとったのに、選手たちの気持ちを考えたことがあるのか」と大炎上する。
本日のデータによると、神戸市で入院調整中のコロナ感染者は1734人だ。呼吸が苦しくても医療すら受けられない人も多い。そのまま自宅や施設で亡くなる人も珍しくなくなった。それでも、人口150万の神戸市民の大多数はその悲惨を目の当たりにしていない。息も絶え絶えに苦しんでいる感染者を見たことがない人のほうが圧倒的に多い。感染症は地震や津波と異なり、ほとんどの人には悲惨が可視化できないのだ。
もし、オリンピックを強行したら、ほとんどの人はコロナのことなんて忘れてしまうだろう。お祝いムードになり、外出をし、皆で試合を観戦し、勝っても負けてもその話題でそのまま宴席に直行する人も多いだろう。そして、これが遠因で感染が拡大しても、もう誰もコロナのことは口にはしない。口にはできない。稀有で気骨のある人が「こんなことではコロナの感染が拡大するぞ」と警鐘を鳴らしても、そういう人を罵倒したり、「そんなエビデンスは存在しない」と詭弁を弄して嘲笑することだろう。オリンピック・パラリンピックが終わり、人々の興奮が冷めて、そうこうしているうちに周囲に感染がマジで拡大してしまったときに、人々は再び手のひら返しをして、「なんでコロナ対策は後手後手なんだ」と文句を言い出すだろう。おそらく、五輪スポンサーの新聞社たちがまっさきに文句を言う可能性が高い。
繰り返す。オリンピックは開催できる。リスク上等で、みんなでドボン、の態度を決めれば、必ず開催できる。
問題は「開催すべきか」である。安全なオリンピックを担保する条件はわかっている。日本国内でのワクチン接種率が十分に高まるまで開催を延期し、無観客にして、それぞれの競技の開催時期と場所をずらせばかなり安全に開催できる。このことは他のより小規模なスポーツイベントが安全に開催されるための「条件」を検討すれば明らかだ。このようなロジカルな議論こそ、去年からずっと行うべきだったのだが。
我々は「安全なオリンピック」がどういうオリンピックか、すでに知っている。もう一度いう。ムードやノリだけを根拠に「とりあえずオリンピック中止だ」とシュプレヒコールばかりやっていると、必ずムードやノリだけを根拠に「とりあえずオリンピック強行だ」の論理に反転させられる。
それが今、一番懸念していることだ。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。