新刊が出ます。例によって、序文掲載です。
そりゃあ自信を持ってるでしょう。徳永家の勝手口から出てきたのがたとえ突撃隣の晩ご飯のヨネスケであったとしても安藤貴和に見えたに違いないみんながそれを望んでいるから。人は見たいように見、聞きたいように聞き、信じたいように信じるんです。
ドラマ「リーガル・ハイ」より
本書のサブタイトルは「幻想と欲望のコロナウイルス」となっています。世界中のほとんどすべての人たちがこのウイルスによって人生を変えられ、生き方を変えられ、考え方にまで大いなる変更を強いられています。よって、このウイルスと無縁は人はほとんど存在しないと言ってもよいくらいです。
だから、人は語りたがる。コロナウイルスについて蘊蓄を傾け、自説を披露し、他人を論破、場合によっては罵倒しないではいられない。ソーシャルメディアという便利な道具もあるわけで、この趨勢にはブレーキがかからない。市井の人々も、社会学者も、経済学者も、物理学者も、アメリカ合衆国の大統領だって、コロナについて主張しないではいられない。
もちろん、このウイルスに関係している人々が(すなわち世界中の人々が)、このウイルスについて意見を述べる権利はあるわけです。だから、意見を述べることそのものは問題ではありません。異論反論が山のように出現するのも、学問的にも感染対策の進化進歩という観点からも悪いことではありません。テーゼとアンチテーゼがもたらすアウフヘーベン、という東京都知事でも言わなそうな古くさい方法は、実は学問的前進においては実に有効な方法なのです。21世紀の令和な現在においてだって。
しかし。
アウフヘーベンが有効なのは、自分が持っていなかったような見解(ジンテーゼ)を受け入れてもいいぜ、という覚悟があって初めて成立するものです。それは、自分が変わる覚悟、覚悟の中でも最も難しい類の覚悟です。このような覚悟を持つことを、イワタは「勇気」だと換言します。変わる覚悟を持つことこそが、勇気なのです。
非常に残念なことに、世界中のコロナ論者たちの多くはそのような覚悟なしに議論のファイトクラブに参戦します。そこにあるのは議論ではありません。「何があっても自分は変わらない」が背景にある演説の連打にほかなりません。まあ、学術界でも、その外でも、たいていの「議論」は実は演説アンソロジーに過ぎないのですが。
そこにあるのは、真実のコロナウイルスではありません。俺が、私が欲望し、創作した幻想たるコロナウイルスです。もちろん、真実のコロナウイルスなどそうそう感得できるものではないのですが、病原体のもたらす現象(疾患)など、そうそう感得できるものではない、という自覚すら演説アンソロジーの中にはないのです。
「幻想と欲望のコロナウイルス」。コロナウイルスが起こす現象の多くは人間サイドのもたらした現象です。人間がこのウイルス感染症と徹底的になくそうと思えば、それはなくなります。本稿執筆時点での中国や台湾やニュージーランドがそうしているように。このウイルスと「なあなあ」の関係になって、ちょっと自粛、ちょっと緩和を繰り返し、「ウィズコロナ」なんて耳に心地よいキャッチフレーズを作ってしまえば、ウイルスはそのように振る舞います。今の日本のように。そして、「コロナなんて風邪みたいなものだ。人間様、なめんな」とうそぶいてふんぞり返ってしまえば、コロナはブラジルとかアメリカ合衆国(すくなくとも大統領選挙以前の)みたいなことをやらかすのです。
我々は見たいものしか見ないし、聞きたいことした聞きません。恣意的に読者の欲望に寄り添うアルゴリズムをもった現代のインターネット社会においては、この性向はますます拍車がかかります。でも、そうやって「俺様だけの宮殿」の王様になりたいのか、私の見たくない不都合な真実の住まう外世界も直視したいのか。まさに、コロナウイルスは人間を試しているようにも思えるのです(こういうアイデアも幻想ですけど)。
2020年11月 岩田健太郎
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