これから書くことはほとんど、これまでも繰り返し申し上げてきたことと変わりない。が、同じ質問は繰り返し受けているので、再度申し上げる次第である。なお、海外からも同様の問い合わせが多いので本来であれば英語でも同じ内容の文章を用意すべきだが、時間の関係で割愛させてください。Chromeかなにかでそれぞれ母国語に訳してお読みいただけると幸いです。なお、本稿は特に感染症学の基礎知識やジャーゴンを知らなくても読めるように工夫はしているが、それなりに難解な内容だ。その点はご容赦いただきたい。
日本のCOVID-19報告数が諸外国に比べて非常に少ないことに内外から注目が集まっている。あれは本当なのか。検査数が少なすぎて、実際の感染者数を見誤っているのではないか、という指摘がある。
しかし、この指摘はいろいろなレイヤーにおいて間違っている。そもそも、日本はCOVID-19の全数把握を目指していない。行政検査であれ、保険診療であれ、国は基本的に入院が必要な重症患者を診断、入院、隔離させることを念頭において検査戦略を練っている。「把握できていない」のは当然で、把握するつもりはないのである。それは悪いことではない。というか、事情は大なり小なりどこの国でも同じで、米国であれ欧州各国であれ、アジアであれ、「全数把握」を目指している国はどこにもない。WHOもそんなことは求めていない。もっとも、そのわりに日本は帰国者無症状者にPCRをやってみたり、無症状な検査陽性者を入院隔離させてみたり(軽症者は自宅じゃなかったの?)、プリンシプルにおいて首尾一貫していない。だから、「なにがやりたいかよくわからない」わけで、人々は不安になる。リスコミにおける失敗と言えよう。
韓国と日本の違いは、「結果」であって「目的」ではない。感染者が一所で急増した韓国ではその地域と周辺の検査を重点的に行わねばならなかった。日本でも万の単位でそういう現象(オーバーシュートと呼んで良い)。が起きれば検査数は増えるだろう。状況が違うときに、その状況を観察せずに検査数だけで是非を議論するのは、サッカーの試合をみずに「あのチームはスライディングタックルを50回もやっていたのに、このチームは1回しかやっていない」と難じるようなものである。スライディングしなくてよい試合(例えば、ずっとボールを握っているとき)には、0回だって「間違い」ではないし、もちろん50回だって間違いではない。
全数把握ができていない疾患など山のようにある。日本ではインフルエンザの「全数」把握はしておらず、定点観測である。それで疫学上、感染対策上、十分な情報が得られているからそれでよいからだ。日本で毎年風邪が何例発生しているか、正確に把握したデータはない。レセプトデータを見ればわかるじゃないか、というのも間違いで、多くの風邪患者は(ぼくのように)受診せずに自然に治るまで待っている。医療に限らず、経済学でも政治学でもデータはサンプリングから母数を推定するのがほとんどで、「全数」は非効率的な状態把握法なのだ。
日本においてイタリアやスペイン、ニューヨーク市のような惨状は起きていない。重症患者で医療崩壊、手術室をICUとして使ったり、死体の山の置き場に困ってスケートリンクに死体を積み上げるという現象は起きていない。「感染者数」が把握できていなくても、日本の現状が(東京を含め)、諸外国よりもずっとよくコントロールされているのは事実である。
さて、それでも「じゃ、実際のところどうなのよ」という関心もあろう。推計はある。例えば、西浦博先生らのグループが行った推計では、日本の軽症患者は報告されている数の倍くらいではないか、と見積もっている。捕捉率は0.44, 95%信頼区間0.37-0.50というものだ。
この推計は中国のデータを基盤にして行われた研究だが、そもそも中国のCOVID-19のデモグラフィックと日本のそれが同じであるという必然性は必ずしもない。また、もととなる研究は無症状者や入院不要の軽症者が含まれていないので、それを基盤に推計した感染者数は必然的に過小評価となる。もっと猜疑的になれば、「そもそも突然変異で日本と中国のウイルスは別物なんだ」という説だって存在していけないことはない(ぼくはそうは思わないが)。
このことは、当該論文自体の価値そのものを貶めるものではない。モデルでは、常に既存のパラメーターを援用せねばならず、そのパラメーターが外的に妥当であるかはしばしば証明できない。前提となるパラメーターが妥当でなければ、予測も当たらない。モデルはモデルである限り、シンプルにされた世界を前提とする。簡略化のないモデル、というのは形容矛盾である。数理モデルのこうした「前提」にイチャモンを付けるのは、例えばAという疾患を対象にランダム化比較試験をしたときに、「Bという疾患については分からないじゃないか」と文句を言うようなもので、業界の仁義に反する意味のない揚げ足取りである。
しかし、論文の読み手は別である。ある種の仮説を前提にした数理モデルは、学問的に内的に妥当性を担保していればよいが、それを現実世界でどうアプライするかは現実世界の住人たる読み手の責任だ。Aという疾患を対象にしたRCTの知見をBという疾患に使ってはならないように、数理モデルの制限や限界を理解し、現実世界にアプライするときに十分注意するのは当然だ。例えば、当該論文を読んで、3月26日時点の「東京の感染者は累計だいたい500人だ」と断定するのは間違っている。
人は間違う。モデルも間違う。間違うことはさしたる問題ではない。問題は、間違いに気づき、修正を加えることだ。すでにロンドンのインペリアル・カレッジのグループは、感染のピークを緩やかにすればいい、という当初の見積もりが「間違っていた」と認め、かなりアグレッシブにこのウイルス感染と戦わないと早晩ICUが破綻すると予測を改めている。
西浦博先生は日本で数少ない感染症数理モデルのプロであり、その能力が傑出しているのは関係諸氏の知るところだ。しかし、多くの人達が数理モデルそのものを理解していないこともあって(ぼくも数理モデルのプロではないので、その知見のすべてを把握しているとは言えないと白状せねばならない)、彼の知見やコメントは神格化されやすい。数理モデルの中身が多くの人には完全にブラックボックスなために、まるで神社のおみくじのような神託が出てくるように見えてしまうのだ。日本の感染対策のポリシーの多くが西浦理論に依存している。それで概ね間違いはないのだが、日本あるあるの問題として、プランAが破綻したときのプランBがないことにある。西浦先生は優れた学者である。神ではない。故に間違える可能性とそのプランBを持っている必要がある。無謬主義に陥りやすい官僚や政治家が科学を神託と勘違いしないか、大いに心配である。反証可能性が担保されてこそ科学は科学的でありつづけることができるのだ。
数理モデルは演繹法の活用産物である。演繹法は帰納法やアブダクションで補完するのが、学問の基本であり、臨床医学の常識である。演繹法的にどんなに正しく見えても蓋を開けてみれば違っていた、ということはこの業界ではよくあることなのだ。ヘーゲルやマルクスのような巨大な知性でも演繹法オンリーでは間違うのである。
モデルを使うな、といっているのでは決してない。ぼく自身、モデルを用いて論文を書く。しかし、モデルは無謬ではなく、そこには前提たる仮定があり、仮定はしばしば間違っている。グラム染色を活用するとは、グラム染色にできないこと、分からないことを知悉していることであり、グラム染色万能論者にグラム染色は使えない。同じことだ。英国でも数理モデルは活用されているが、だからこそその結語には非常に懐疑的で、常に反論、異論が起きている。健全で科学的な態度である。
日本の「今」は感染がうまくコントロールされている状態で、それは最悪時の武漢や、現在のイタリア、スペイン、フランス、英国、ニューヨークに比べてずっとよい状態である。問題は、それが「これからもずっとうまくいく」ことを保証しないことである。
懸念されるのは東京だ。感染報告が増えたことだけが問題なのではない。クラスターを形成できない、トレースできない感染者が増えているのが問題である。そして、その陽性患者数に比べて検査数がずっと少ない。47人の感染者を捕捉するのに100人未満(陽性者の検査日が不明だが、おそらくこのへんだろう)しか検査していないのは少なすぎる。繰り返すが、すべての感染者を把握する必要はない。が、感染の流れ、動き、クラスターが見えなくなっているのは困る。よって、東京では検査の閾値を下げねばならない。検査の閾値は状況によって変化する。韓国の例で説明したとおりだ。厚労省の「基準」にこだわっていると現象そのものを見誤る。すでに関西では味覚異常、臭覚異常を根拠に感染者が見つかっており、そこからクラスターが検知された。こうした臨床医のアスチュートな感性はもっと活用したい。東京都の「どこ」が検査数を下げている障壁なのかは分からないが、その障壁は即座に取り払う必要がある。
感染のピークを下げて横にずらす、という皆が見ているこの概念図。これとて演繹法の産物であり、本当に正しいかどうかは分からない。前述のように、英国の試算ではすでにこれでは足りない、と考えられている。横にずらした被害が、単に「やたら長い被害」になってしまう可能性もある。
そして、ここが肝心なのだが、ピークを下げるという理念が、「ピークを下げなければいけない」という観念になり、「ピークは下がっているはずだ」という確信になり、「ピークは起きていないんだ」という自己暗示に転じてはいけないということだ。プランAに固執する日本あるあるの失敗のパターンで、ダイヤモンド・プリンセスでは「二次感染が起きてはいけない」が「起きているはずがない」に転じてノーガード下船を許してしまった。ピークが起きてはいけない、がピークなんて見たくない、にならないように現実を見据える必要がある。たとえ、それが我々の見たくない不都合な真実であったとしても。
繰り返す。演繹法は帰納法で補完するのがこの業界の常識だ。とはいえ、PCRは偽陰性が多くて感染の状態を把握する力に乏しい。「なんでも検査」が間違っているのはそのためだ。しかし、免疫グロブリンIgM、IgGを測定する血清検査であれば、「集団における感染の状態」はより正確に把握できる。これとて、無謬ではない。早期感染は見逃すので、個々の症例には使いにくい。HIV早期感染を見逃すのはこのためである。個々の事例に抗体検査が有用かどうかは、未だ検証を待たねばならないが、ポピュレーションベースで疫学調査をするのには向いている。ざっくり言えば、今東京で「感染が蔓延している」のか、それは杞憂に過ぎないのかを確認できる。前例はあって、ロンドンの血清検査で09年パンデミックインフルエンザが従来予測の10倍起きていたことが血清検査でわかっている。抗体検査はアウトブレイクのあとで事後的に行うことが多いが、慢性的パンデミックになりつつあるCOVID-19については、「今」こそが検証のポイントといって良い。
英国はさらにアグレッシブだ。家庭で抗体検査を行い、「感染者である」とわかればそれを自宅での自己隔離の根拠に使おうというのだ。ロックダウンが起きている中で、検査陰性は「自己隔離不要」を意味しないため、その戦略に穴はある。が、考え方としては「感染全体を抑え込みたい」というもので、検討の価値はあると思う。
東京でどのくらいの感染が起きているか、帰納法的確認は必要であり、有用だ。その結果がどうなるかは預言者ではないぼくには分からない。が、どんな結果が出てきても、それを受け入れ、場合によっては自説を曲げ、プランBに移行することにも躊躇しない態度が科学者には必要だ。科学者は、首尾一貫していないことにかけて、首尾一貫していなければならないのだ。形式においては朝令暮改であっても、プリンシプルやプロフェッショナリズムにおいて曲げてはならないのだ。事実に誠意を。
岩田先生、初めてコメント差し上げます。現在CNN放送通訳者をしております柴原早苗と申します。数週間前、先生のCNNインタビューを業務中に拝見し、勇気溢れる行動に敬意を表したく存じます。
今回のコロナウイルス。私は以前イギリスに暮らしていたことからNHSの動きに注目しております。NHSサイトのトップページのメッセージは"do not leave your home" "Everyone must stay at home"とシンプルかつ力強いメッセージです。"CATCH IT BIN IT KILL IT"のポスターも同様です。非英語話者でも子どもでもわかります。先生のリスク・コミュニケーションに関するご著書を拝読し、なぜイギリスのようなコミュニケーションが日本ではなされないのかが、残念に思っております(拙ブログに執筆いたしました)。
先生が国内外にメッセージを発信しておられること、ありがたく存じます。先生へのご連絡手段がわからず、取り急ぎこちらにコメントを差し上げる次第です。できましたら本コメントは非公開にしていただければ幸いです。
どうぞ御身ご自愛くださいませ。
柴原 早苗
投稿情報: Addington76 | 2020/03/29 12:13
「科学者は、首尾一貫していないことにかけて、首尾一貫していなければならないのだ。形式においては朝令暮改であっても、プリンシプルやプロフェッショナリズムにおいて曲げてはならないのだ。事実に誠意を。」
これぞプロ中のプロ意識。
こういった知見をベースにすることがことさら重要なトピックだし、こういった知見こそがベースになるべきだと思う。
いろんな大変さがあると思うけど、事実という状況にあわせて柔軟に思考を切り替えられる心の準備は常に必要なんだと思った。
投稿情報: 賀東 敦 | 2020/03/27 14:23