通り魔殺人、自殺とい事例について、多くの方が論評している。「ひきこもり」が問題なのでは、という指摘がテレビなどでなされたようですが、精神科医の斎藤環先生がいうようにこれはまったく見当違いな話だ
定義に合致する意味でのひきこもりが通り魔をした事件はいまだかつて存在しません。ひきこもりの犯罪率は著しく低いです。家庭内暴力と通り魔は攻撃性のベクトルが逆なのでほぼ両立しません。今後懸念すべきリスクは、将来を悲観した当事者の自殺と無理心中(未遂)、疲弊した親による「子殺し」。
— 斎藤環 (@pentaxxx) 2019年6月4日
あるカテゴリーを持つクラスタにリスクをなぞらえて論じる気持ち悪さやリスクを尾藤誠司先生も論じている。これが「いじめの構造そのもの」な点に、全く賛成だ。
短絡的な特性クラスタによる分類、そして、短絡的な因果関係の説明は、差別社会の深刻な病だと私は考えます。これはまさに「明日は我が身」です。誰もが「その他大勢の人々」からみると「理解できない」何かしらの特性を持っているのではないでしょうか?たまたまその特性を持っていたというだけで特定のクラスタにカテゴリ付けされてしまい、そのうえで「危険人物」扱いされてしまうのです。そして、その源泉となっているのが「理解できない」人たちに対する嫌悪感だったとしたら、まさにこれはいじめの構造そのものなのです。
池田清彦先生によると、他人を道連れにする衝動に駆られた人物が殺人にいたることを「アモク・シンドローム」と呼ぶそうだ(「心は少年、体は老人」より)。また、大量殺人のあとの自殺衝動というのは単なる殺人者とは異なる特質がある、という見解もあるそうだ。米国の連続的、定期的に起きる銃乱射、自殺というコロンバインのコピーキャットがそうだし、津山事件以降の日本の事象もそうだ。
で、こういうアモクとか大量殺人のあとの自殺にせよ、とくに「ひきこもり」がリスクになっているというデータは見つからない。おそらくは「ひきこもり」は原因というよりも結果と考えるほうが合理的だ。だから、ひきこもりを無理にひきこもらないように仕向けたところで、こういう殺人ー自殺の連鎖はなくならないだろう。
それよりも、アモクにせよ「殺人自殺」の連鎖にせよ、そのリスク因子でほぼほぼはっきりしているものが一つだけ、ある。
それは、「男性」であるということ。女性でこういう事例を起こすことは極めて稀である。
で、ここで思考停止になって、やっぱ男が悪いんだ、とミサンドリーに走ったりしてはいけない。もちろん、昔、アラン・チューリングが受けたような(というかまあ逆だけど)ホルモン療法などを想起してもいけない。チューリングは同性愛者である「罪」のために(英国では20世紀戦後まで同性愛は犯罪だった)、男性ホルモン注射を義務付けられた。英国も非常にえげつない人権無視の負の歴史を持っている。逆に世の男性に女性ホルモンを注射したら、男性特有の暴力性や犯罪性は抑圧される可能性は、ある。
あるが、その副作用は大きい。まず、人口は激減する。特にすでに人口減少モードの日本では大打撃だろう。
それ以上に問題なのは「分母」の問題だ。つまり、アモク、殺人・自殺者のほとんどは男性なのだが、男性の殆どはアモクでもなく、殺人・自殺などしないってことだ。どちらを分母で考えるかで、見えてくる風景が変わってくる。よって、ほとんどの男性にとって、殺人のリスクを糾弾されるのは筋違いなやつあたりだ、ということだ。
同じことは例えば「痴漢」についてもいえる。痴漢のほとんどは男性だ。が、男性の殆どは痴漢などはしない。一部のフェミニスト(ここでも分母が大事で、みんなではない)がときに男がみんな悪い的なSNSでの情報発信をし、「私はこんなに痴漢に苦しめられてきた」という文脈で糾弾するが、糾弾するべきはあくまで痴漢であり、男性そのものではない。これもやつあたりだ。上の理路と同じである。
このことは、個別の事例を過度に一般化してはいけない、というもっと一般的な法則で適用できる。過度の一般化は差別の正当化にしばしば使われる。そのような陥穽に陥ってはいけない。
そうすると、稀な大量殺人・自殺という現象に一般的な対策を立てるのも必ずしも正しくない、ということが分かる。個別の事例は個別的に対応すべきで、なにかそこから一般的な方策など導き出さないほうが良い。街の監視カメラを増やして、犯罪一般の抑止圧力をかける、みたいなのは妥当だけど、それ以上踏み込むと冤罪や八つ当たりの弊害がずっと大きくなる。
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