ある方に教えてもらったiPhoneの読み上げ機能が便利だ。最初は、鬱陶しいVoiceOver機能と取っ組み合ったりいろいろ失敗したが、なんとか使えるようになった。英語など多国語で読み上げるときはいちいち設定を変えねばならず面倒なので、今の所日本語限定で使っている。
これを使うとKindleを読み上げてくれるので、ジョギングしながら本を読める。オーディオブックじゃなくてもよいのが、とても便利だ。
読み上げは正直ぎこちない。小説はあまりオススメできない。たぶん、ビジネス本あたりが一番活用しやすそうだ。もっとも、ぼくは本屋に売ってるビジネス本と健康本は読むだけ時間の無駄だと考えてるので、一切読まないけど。
そりゃ、志ん朝が朗読した池波正太郎とか、オーソン・ウエルズの宇宙戦争とかのほうが素晴らしいに決まっている。けれども、書籍の録音はとてもレイバーインテンシブで、多くの書籍はオーディオ版を持たない。艶っぽい内容の官能小説や、下品なギャグの多い本などはそもそも録音したがらない人も多い。それに比べると、読み上げ機能の汎用性の高さは圧倒的で、今朝の新聞だって読んでくれるのだから、その便利さが、喋りのぎこちなさをいとも簡単に相殺してくれる。とくに、視覚障害のある方には素晴らしいツールだろう。
漢字の読み間違えはわりと多い。ロワールおおやけ、ギリシアただしきょういたずら、などと読む(分かります?)。そういう意味でも簡単な漢字がほとんどのビジネス本向けだ。でも、イントネーションはわりと正しい。「わーたーしーはーうちゅうじんですー」という中国語の一音だけ、みたいな読み方ではない。「実行」であれば、二音、一音的にイントネーションが正しくついている。賢いな〜。
で、「ついたちのちょうがある」と読まれたときは、おおっと思った。「一日」を「ついたち」と読めるAIの頭の良さと、「一日の長」と書くときは「いちじつ」としか読めない日本語の難解さに、である。日本語が外国人泣かせなわけである。そりゃ、日本の首相や副首相がちょっと漢字の読み方間違えたくらいは、ダイモクに、いや、大目に見るべきだ。ちなみに5月6日は「さつきむいか」と読んでいた。知性を感じるではないか。
ぼくが感じ入ったのは、これだけエラーが多く、おそらくそれなりにクレームもあるであろうこの日本語読み上げ機能をアップルが実装した勇気にある。間違いは多い。欠点も多い。けど、ないよりもあったほうがずっと便利。そういうプラグマティズムを感じる。
これが日本の企業であればどうだろう。間違いが見つかる間は、こういうものは商品化しないのではないだろうか。あそこが間違っている、ここがおかしい、と重箱の隅をつつくタイプのチェックを重ねるのではなかろうか。
外国に住んだことのある人は、各国の役所の仕事が雑でいい加減なことに嘆いた経験を持っていよう。日本の「お役所仕事」は世界一で、本当に正確だ。しかし、融通がきかないし、間違えても修正が効かない。1円も計算ミスが許されない銀行業務にも似たところがある。
Wikipediaは間違いが多いと多くの人が文句を言う。しかし、Wikipediaはその間違いの多さにもかかわらず圧倒的な便利さを誇る。エンサイクロペディア・ブリタニカよりもずっと便利で、汎用性が高い。こないだ、ふとしたことからシエラレオネで起きたWest Side Boysの英国軍人誘拐事件を検索したが、Wikiにはきっちり載っていた。
Wikipediaにはもちろん間違いが多い。しかし、総じてWikipediaは便利だ。「舟を編む」は傑作だし、ああいう精緻な辞書の作り方は決して否定はしない。が、おそらく、Wikiと「舟」の両方あったほうが、片方よりもずっとよい世の中だ。
そういう考え方が、Wikiや「読み上げ機能」を普及させるのだ。あるいはIT、AI、ネット、アップル製品、グーグル、フェイスブックなどを進化、普及、普遍化させるのだ。パソコンのOSはリリース当初バグがあるのはすでに常態化している。「あとで見つけて直せばいいのだ」という発想が定着している。
そうこうしているうちに、パソコンのハード、ソフト(OS含む)、スマホ、オーディオ、家電、、、とかつての日本のお家芸はほぼ全滅状態である。僅かに残った自動車などの牙城も大丈夫であろうか。
日本の成長を阻んでいるのは「間違わない」「間違ってはいけない」「間違うはずがない」という無謬主義だ。これが各企業、役所、大学などの隠蔽、改ざんなどの不正と密接に関連している。間違ってはいけない、を前提にしているから、冒険できず、挑戦できず、成長できない。間違うはずがない、を前提にしているから、間違いの存在そのものを全否定し、ついには隠蔽や改ざんに走るのだ。
もちろん、間違いまくっていればよいと主張しているのではない。例えば、医療行為などはエラーを容認しすぎると弊害が大きすぎる。
しかし、繊細さと大胆さは同居可能だ。優れたミュージシャンは常に挑戦し、新しい作品を作る。けれども、同時に保守的に「自分の音楽」を守る。冒険と保守の共存だ。ビートルズはビートルズらしさを残しながら、新しい音楽を開拓してきた。「こんなのビートルズじゃない」「また同じ。マンネリ」という両極端でわがままなファンの要求に応えてきたのである。医学教育においても、シミュレーションやテーブル回診でもっと学生や研修医に間違わせ、議論の中から妥当な判断を促す、という方法をとったほうがよい。多くの医学生・医者は「間違えた経験がなく」(勘違いだけど)、よって、間違いを認めようとしない。夜郎自大な医者が日本に多いのは構造問題である。
現在、日本が停滞している領域での、停滞の最大の原因は無謬主義にあるとぼくは思う。間違いを認め、挑戦を認め、よって失敗を許容し、さらなる冒険を促す。少々の失敗には目をつぶって全体の前進を歓迎する。その象徴がiPhoneの読み上げ機能である。日本のどこにそのような冒険や失敗への寛容を観察できるだろうか。
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