HPVワクチン(いわゆる子宮頸がんワクチン)の副作用としてHANSという疾患概念が提唱されている。HANSはHPVワクチン関連神経免疫異常症候群の略であるから、HPVワクチンに関連している、がこの疾患概念のキモだ。
HPVワクチン接種のあとで、「口内炎、記憶障害、関節炎、学力低下、自律神経障害、睡眠障害などの様々な症状」が出現する人達がいる。これは厳然たる事実だ。問題は、それが「HPVワクチン関連」、すなわちHANSなのか、である。様々な見解があり、決着がついていない論争である。
HANSの問題はいわゆる「あるなし問題」である。ぼくはすでに2016年にHPVワクチンの問題については総括しており、その結論は今も変わっていないが、今回は命題をより一般化させて「あるなし問題の論じ方」を考えてみたい。
まず結論から述べると、「あるなし問題」そのものを議論するのは不毛である。だから、止めておいたほうが良い。
「あるなし問題」は、その定義からして、「ある」のか「ない」のか判然としていない状況をいう。存在が明らかなものには論争は生じない。太陽の有無を真剣に論ずる人は、ちょっと危うい懐疑主義に陥っている人で、そもそもこういう人とは議論しないほうが賢明である。
あるのかないのか判然としないものを「ある」「ない」と主張しあっても、議論は水掛け論になるに決まっている。神を信じる人と無神論者のほとんどは、互いに相手を論破しようとは思わない。時間の無駄だと分かっているからだ。そもそも「ない」という証明(非存在証明)は一般に極めて困難か、しばしば不可能なので、存在が明確でない概念の論争は無限地獄の水掛け論に終わるに決まっているのである。「あるなし問題」そのものを議論するのは不毛だ、と述べたのはそのためだ。
では、私たちは「あるなし問題」をどう論じたらよいのか。
ひとつは、その概念が「ある」にせよ「ない」にせよ、どちらのほうが真実であったとしても妥当性の高い一般解を導き出すことである。これは一種のゲーム理論の応用だ。例えば、HANSが現存するにしても、そうでないとしても、HPVワクチン後の有害事象に対する医療上その他の対応策をきちんとたてておけばよい。ぼくもだから、「総括」においてHANSの有無とは無関係に対応すべし、と主張した。
もうひとつは、概念のエフェクトサイズの問題だ。有無は問わない。ただ、仮にそれがあると仮定した場合、それがどのくらいのサイズ(あるいは頻度)で発現するものなのか。
数々の大規模なコホート研究により、国内でも国外でも、HPVワクチン後の神経学的その他の有害事象はまれであり、それはワクチン非接種群と比べても統計的な有意差がないことが分かっている。このことはHANS(まあ、HANSでない呼称を用いても一向に構わないけれども。ぼく個人は概念そのものが理解されているかぎり、それを「どう呼ぶか」は些末な問題だと考える)の非存在の証明にはならない。これがカール・ポパーの反証主義であり、ポパーは統計学と折り合いが悪い。仮にポパーなんて信用できない、と主張したとしても、前述のように「非存在証明」は困難もしくは不可能で、統計学においてもそれは例外ではない。
が、エフェクトサイズが十分に小さく、そしてワクチンによる効果がそれを大きく上回る場合は、医療者、公衆衛生専門家、そして保健行政のプロがとるべき判断は明らかだ。「より、利益の大きく、リスクの小さい選択肢を取る」である。もちろん、個人の自由、人権は尊重されねばならないから、個々の判断に国や自治体は強く介入できないし、するべきではない。しかし、パブリック・ヘルスの向かうべき道は、積極的なHPVワクチンの勧奨である。個人の喫煙権は十全に保証されるべきだが、国家が喫煙被害を看過してはならないのと同じである。これは一見ダブルスタンダードのように見えなくもないが、もちろんそうではない。
かようにエフェクトサイズは重要である。ぼくが臨床医学論文を読むとき、統計的有意差(P値)よりもエフェクトサイズのほうを優先的に読むのはそのためだ。統計的有意差は「まぐれの可能性の小ささ」を保証するものではあるが、前述のようにまぐれか否か、よりも「かりにまぐれじゃなかったときの、その効果の大きさはどうよ」のほうがより臨床的な命題なのである。なお、話が横に逸れるが、非劣性試験のときの非劣性マージンは、本来は個々の患者によって「許容できるマージン」が異なるのであり、最初から研究者が上から目線で設定するのは間違っている。これもエフェクトサイズの問題だ。「ちょっとくらい死亡率が高くなっても、おれはこの治療は受けたくないよ」という患者の代替たるプランBの許容できるマージンは「できるだけ死亡率を下げたい」患者のそれより大きいに決まっているからだ。ぼくは、こんな事を言うと多くの擦れっ枯らしの臨床試験屋さんたちに怒られるとは思うが、事前にマージンを設定する非劣性試験という構想そのものが本質的に(臨床的に)失敗していると思っている。
いずれにしても、繰り返すが、エフェクトサイズからアプローチする方法は、非常に臨床的である。かつ汎用性が高い。
敗血症性ショックにおけるステロイドの効果は延々と議論されている、そしてまだ決着がついていない典型的な(効果の)「あるなし問題」である。しかし、論争が続いていること「そのもの」がステロイドの相対的な重要性を減じている。よって、敗血症性ショック患者にステロイドを使うにせよ、そうしないにせよ、「もっと大事なことはたくさんある」ことは自明である。
MRSA腸炎(抗菌薬関連下痢症としての)もまた典型的な「あるなし問題」である。くどいようだが「あるなし問題」は不毛であるから、「議論する暇があったら、検証すべきだ」とぼくは思った。2千近い論文を使ったシステマティック・レビューが明らかにしたのは、MRSA腸炎はやはりあるかもしれない、、、が、報告されているものはすべてその存在証明に失敗している、、、であったのだ。MRSA腸炎があろうとなかろうと、ぼくにとってはどうでもよい。それは(仮にあったとしても)稀有な存在で、臨床現場にはもっと取っ組み合わねばならない問題が山積しているからである。
東日本大震災と福島の原発事故での放射線の健康被害問題も典型的な「あるなし問題」であった。放射線の健康被害は実在するが、少量曝露の健康被害については閾値の有無説という「あるなし問題」がそもそもあり、大きな議論となった。ここでも大切なのはエフェクトサイズである。かつての同僚だった坪倉先生たちのご尽力で、福島原発事故での放射線被害は一部で懸念されたよりもずっと小さく、居住や食事といった生活にも支障がない。風評被害によるあれやこれやのダメージに比べればずっとましであることがはっきりした。ぼくが福島県各地に何度も足を運び、そこで食事をとり、あるいは「福島産」の食品を積極的に購入して摂取しているのもそのためだ。
そういえば、HPVワクチンにはもうひとつの「あるなし問題」がある。それは子宮頸がんの予防効果の「ある、なし」である。これについてはもう一つの思考方法、アブダクションが有効である。
朝起きて外に出ると、地面が濡れている。我々はそれを見て「昨夜、雨が降ったんだな」と推定する。見てもいないのに。証明もしていないのに。これがアブダクションである。アブダクションは演繹法や帰納法に加わる第三の思考方法で、かつ極めて臨床的である。
では、HPVワクチンの効果にどうアブダクションを活用すべきか。これについてはあえて、本稿では論じない。各自で考えてみていただきたい。
最後に、本気で「あるなし」に正面から取っ組み合うためには懐疑的にアプローチしたほうがよい。デカルトが自らの存在証明に行きついたように、徹底的に疑いぬくことが大事である。もっとも、VRの進歩した現在からみるとデカルトの証明はホンマに証明なんかいな、という気もするが。結論ありきで、「ある」「ない」と決めつけてから論争しても、それはまさに宗教論争以外の何物でもなく、不毛である。むしろ自説と真逆の仮説の支持者となり(これが「悪魔の味方」、devil's advocateだ!)、そこから議論したほうがはるかに生産的である。生産性(productivity)は、最近、困った政治家がつまらない使い方をしたために、ずいぶんと安い言葉になってしまったけれども、本当に大切な概念なのである。何も産まない議論(futile discussion)が多すぎるのが、日本社会の大きな欠点の一つであり、それは時間の無駄遣いにつながり、企業や大学や病院のブラック化、女性の輝けない社会などなど、様々なところに悪影響を及ぼしているのである。
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