いつも申し上げていることですが、加齢によって心身能力が落ちていくのは自然なことです。しかし、能力低下=老害、ではない。「老害」という特異な日本語(他の国の言葉でこれに相当する単語を知りません)が存在するのは、日本社会に老害を生成、維持するシステムがあるからです。個人の問題ではなく構造的な問題です。
反知性主義はいつの時代、どの場所にもあります。
要するに知性とは「盲信」と「過剰な懐疑」の中間に位置する存在です。反知性主義とは過度な盲信に陥り、それ以外の概念を過剰な懐疑で全否定します。そしてある概念を宗教化し、異なるそれを異端化する。
意外なことに、こういう反知性的な態度を持つ人の頭脳の「能力」は極めて高いことも多い。頭の回転は早く、計算も正確かつ迅速で、記憶容量もいい。ただ、頭脳の回転が一様で試行錯誤することがない。一直線に事前に決定された結論に直進し、それ以外の選択肢を捨象する、工場の精密機械のような単純労働的な頭脳の動きしかできなくなるのです。ちなみに、現在の日本の受験制度の多く(全部とはいいません)はこの工場の精密機械的な頭脳能力を吟味したものです。過去問の「傾向と対策」を徹底することで、この能力は飛躍的に向上していきます(医師国家試験も同様)。
「老害」を回避する最良の方法は質の高いコミュニケーションです。相手の言葉を聞き、「相手の言いたいこと」を観取する。自説と対立説を突き合わせ、アウフヘーベンする。自らが変わり続けることを恐れない態度を持つ。周囲も、自らが同じであり続けることを許容しない。
実は外国にも「老害」はあって、典型例は独裁者のそれです。独裁者がなぜ「老害」に陥るかというと、上述のコミュニケーションを一切遮断してしまうからです。あるいは異説を唱えるものを粛清してしまうからです。現職の米国大統領なんかが、この好例ですね。
日本はわりとよい社会で、そこにはスターリン的な独裁者はあまり発生しない。しかし、周りが忖度することでゆる~い独裁は発生します。そこでは異説が粛清されるのではなく、異説は先回りした忖度のために「沈黙される」のです。そして、影でこういうのです。「あいつは老害だ。いなくなるまで、ゆっくり待とう。俺たちの時代が来るまで」と。戦略的には極めて巧緻なやり方ですが、ピットフォールが2つあります。一つは、そうやって「俺たちの時代」が来たときに、やはり同じような構造で自ら「老害」に陥るリスクが非常に高いこと。そして、もう一つはそうやって「老害」に陥ったものを影で揶揄するだけで本人にそうと気づくチャンスを与えないという残忍さです。忖度とは実に残酷なシステムなのです。
繰り返します。知性は極端な盲信と極端な懐疑の間に立ち、フッサール的に言えば「エポケー」の態度を守りつつ、真実に漸近していく態度を持つ頭脳をいいます。精密機械的に迅速な回転や大量な情報処理が必ずしも真の知性の前提ではありません。ここに必要なのはむしろ「勇気」でしょう。自説を覆す勇気。そして友誼でしょう。相手の間違いを正す友誼。
HPVワクチンが子宮頸がんを予防するか。この議論に必要なのは知性であり、盲信でも懐疑でもありません。その知性を裏打ちするのが変わる勇気と、正す友誼です。MRSA腸炎は存在するか?この命題の答えに近づく唯一の方法もまた知性です。演繹法や帰納法(臨床試験)、アブダクションといった技量を用いて真実に接近していくのですが、その背景にあるのも知性にほかなりません。その知性を後押しするのも、勇気と友誼なのです。
学会が「お友だち集団」に堕したときに、真っ先に失われてしまうのがこの友誼であるのはなんとも皮肉です。年配の人物が理事長に担ぎ上げられて、「あいつは終わった。老害だ」と陰口を叩かれて、次のチャンスを虎視眈々と狙う若手たち。そこは「やたら頭のいい反知性主義者たち」の巣窟です。そういう蛸壺たる巣窟を壊して広げて、真の勇気と友誼を励行していく以外に、日本の学術の進歩はありえないのです。グローバル化だのアウトプットだのの、些細な話は、そのあとなのです。
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