平昌オリンピックのフィギュアスケートは羽生結弦が金メダル。宇野昌磨が銀メダルという結果に終わった。
正直、全くの予想外な結果であった。ぼくは羽生さんはメダルは無理だと思っていたので(宇野さんのことは知らなかった)、とても驚いたし、申し訳なくも思った。
むろん、ぼくはフィギュアスケートのプロフェッショナルな批評能力など皆無であり、ぼんやりした一見物人にすぎない。うちのまえの秘書さんがかなりシリアスなフィギュアスケーターかつ審判だったので、技の名前や点数の付け方を教えてもらったことはあるが、それもたいがい、忘れた。
だから、ぼくのような人間がメダルを取る、取らないの予測をしてもそんなものは何のあてにもならないのはまあ、アタリマエのことだ。
ただ、日本のオリンピック競技のメディアの予想と結果のギャップは定型的なまでに激しく乖離している。このことは一般化できる観察だと思う。過度なまでに持ち上げて、騒ぎ、そしてがっかりさせられる。この繰り返しと日本独特の自分を追い込み、周りが追い詰めていく。
このプレッシャーにたいていの選手は参ってしまうと思っていた。現にこのパタンで参ってしまい、実力も発揮できなかった選手は多いのではないか。
ところが、金メダルを取った羽生さんも銀メダルの宇野さんもその手の凡人が想像しそうなプレッシャーとはまったく無縁な存在だった。あるいはその程度のプレッシャーに打ち勝つだけの強いメンタルの持ち主であった。そういうメンタルを日本のアスリーツが持ちうる可能性を予見しなかった自分を恥じているのである。
考えてみれば、これは素晴らしいことで、かつての日本の競技者であればこのようなプレッシャーには克てなかった可能性が高いように思う。それは各人の才能や努力とは別に、「自分を追い詰め、周りが追い詰めていく」構造に原因があると思う。古くは東京オリンピックのマラソンランナーから女子の数々のスケーターまで、この構造に絡め取られてきたようなきがする。
これを乗り越えたのはもちろん、本人のメンタル・ストレングスにもよるし、コーチングの進化にもよるだろう。しかし、社会の寛容にもその一因があるのでは、とも思っている。
宇野さんはインタビューで、ジャンプに失敗したときの気持ちを「笑えてきた」と表現した。この発言にも少し驚いたが、これらのコメントをネット上で多くの人が賞賛したことにもさらに驚いた。宇野さんの笑顔を社会が歓迎した。そのことは、アタリマエのことではない。
思い出したことがある。1998 年のフランス・ワールドカップの時、敗戦の続いた日本代表の城彰二がテレビ画面上で笑顔を見せた。これがために城は多大なバッシングを受けることになる。
まあ、結果が出た、出ないという大きなちがいはある。しかし、昔はアスリーツの発言や態度にとても不寛容な時代ではなかったかと思う。昨今、力士や元力士の態度がどうこう議論されるが、昔はこのような議論が起きえないほどに外的な圧力が激しく、スキャンダラスな発言、行為そのものがあり得なかった、とも考えられる。
ネットの進化で不寛容な社会になった、とよく聞くが、それはこれまで議論すらはばかられてきた問題が顕在化しただけであり、ネット(総じて)で考えると、日本社会の寛容度は増しているのだ。
そして、ここが肝心なのだが、自分を追い込まず、周りが追い詰めない寛容な社会のほうが全体として良い結果を生みやすい、ということだ。
簡単に言えば追い込んでいく同調圧力、全体主義的社会というのは(極端に言えば)スターリン的左派であれ、ヒトラー的右派であれ、国家を強化しようという欲望がとても強い。しかし、同調圧力はアウトカムという観点からは逆効果であり、要するに目的にそぐわない。
不寛容な精神は今も強くあるが、昭和の時代に比べればずっとましになっている。ネットで炎上が何度起きようと、そもそも「炎上する」という選択肢があること自体がはるかな進歩なのだ。これがさらに進化して、「炎上しない」までいけば、もっとよくなるだろう。
もちろん、用心深くなくてはならないところもある。宇野さんだって結果が出ない時はすぐにバッシングにあうだろう。「勘違いしている」とかいい出す奴らも出てくるだろう。日本メディアは基本的にバレーボールのようなもので、持ち上げては(トス)、叩き落とす(アタック)のが定形なのだ。
多様な社会は国益に合致し、パトリオティックな精神にも合致する。不寛容なバッシングは国益に合致しない。ナショナリスティックなネットの住民はそのことを理解し、ビッグピクチャーから寛容と多様性の擁護をしたほうが、自分の欲望を満足させやすいというちょっとしたパラドクスと向き合ってみてはどうか
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