わりと濃密なグループワークがあって、グループのメンバーたちはすっかり仲良くなってしまった。インテンシブな学術活動のあと、ぼくらは飲みに行ってさらに仲良くなった。
メンバーの1人は喫煙者であった。その人は席を外して、時折たばこを吸いに行く。グループには医療者もいたが、そうではないメンバーもいた。話題は自然に喫煙と健康についてに転じた。医学をバックボーンにしていなくてもメンバー全てが「学問」をバックボーンにしている。ぼくらは喫煙が健康にもたらす影響について議論し、ぼくは自分のバックボーンを活用してそれを語った。
ここで大事なのは、メンバーの1人が喫煙者であり、そのことを我々全員が了解しているということである。我々全てが仲間であり、そのことも了解している。そしてこの人物は僕の「患者」ではないし、僕はかの人物から主治医としての役割も要請していない、ということである。そういう前提にたって、僕らは医学と喫煙について語ることができる。友誼を損なうことなく、理性を逸脱すること無く、データを矮小化したり肥大させることもなく。
これは一見アクロバティックな営為に思えなくもない。実際、こういうのを困難に感じる医者は多い。そういう訓練を受けていないからだ。これが「喫煙」だから、一部の人はアタマがカッとなってこれ以上理性的な話ができなくなってしまうのだが、例えば仲間の中に1人「デブ」がいたとして、その人との友誼を損なうことなく、人間として辱めることも貶めることもなく、肥満と健康について学問的に議論できるだろうか。もちろん、できると思う。ただし、そこには大いなる配慮、気遣い、技量を必要とするし、多くの場合はそのような会話自体を回避したほうがよい、ということくらいはさすがに大抵の人は理解してくれると思う。
ぼくは医学生のころからHIV/AIDSと取っ組み合っている。取っ組み合う前に、10代のころ某国で「ホモ」(と当時は呼んだ)に言い寄られたことがある。世間知らずだったぼくはそれを「気持ち悪い」としか思わなかった。無知と無経験は偏見の源泉なのだ。
その後HIVと取っ組み合うようになり、友人や先輩や同僚や後輩や患者の多くがLGBTであると(あとになって)知り、そのなかには感染者もいた。そうこうしているうち、「そういうこと」はほとんどどうでもよくなった。昨日、あるひとに「LGBTの人とどのように人間関係をもつべきなのですか」と質問されたのだが、「そういうことを別に考慮しなくてもよい状態になればよい」とぼくは答えた。今のぼくにとってそれは、「メガネをかけている人とどのような人間関係を持つべきか」くらいの命題でしかない。
もちろん、それはHIV/AIDS問題を無視したり矮小化したりしてよい、という意味ではない。日本においては男性同性愛はHIV感染の明らかなリスクファクターである。ぼくはプロだから1秒たりともその事実から目をそらしたことはないし、今もこの問題には日本の誰よりも真剣に取り組んでいる。そして、同時に男性同性愛者が目の前にいても、そのリスクについて、目の前の人物を否定したり、友誼を損なったり、人格を否定したり貶めたり辱めることなく論ずることはできる。その人物のHIV感染の有無とは無関係にできる。いや、目の前の人物が同性愛者かどうかを確認する必要すらない。
なぜなら、ぼくがHIV/AIDSについて語る語り方は、目の前の人物がLGBTであるか否かによって変化するものではないからである。
さて、喫煙と健康被害を論じる人は多い。しかし、僕の見る所その多くは「口調」に問題がある。そのことに気づいていない人は多いし、まじめに喫煙の健康問題と取っ組み合っている人ほどそうである。その人が講義や文章やSNSで使っている「口調」を、目の前の親友が「実はオレもスモーカーなんだよね」とカミング・アウトされた時に、躊躇したり、恥ずかしさを感じたり、怒りを感じたり、口ごもったり、あるいはその論調を変えることなく、「あっそうなの。でさ、今の論文なんだけど、、、」と涼やかな顔でそのまま「喫煙」について語り続けることができるか。そこが問題である。
たぶん、多くの医者は、それが、できない。なにしろ、そういう人物の中には明らかに喫煙者を憎悪し、人格を否定し、その存在を消してしまいたいという欲望すら隠しきれなくなってそれが「口調」に現れているのだから。
肥満や禿頭(いわゆる「はげ」のことです)やエイジングといったポリティカリー・コレクトネスを要求されている健康問題について、医療者の「口調」はかなり健全である。そこには慎みや気遣い/配慮が常に要請されている、と自覚があるからだ。ところが、こと喫煙になるともはやそれは「攻撃しても誰にも文句を言われない」領域である。
そういうのにはとりわけ気をつけておいたほうがよい。日本人は普段慎み深いが、いざ「叩いても良い存在」となるととたんにリミッターを外して、タコ殴りにする悪癖があるからだ。
これは、我々日本人が「理性的に議論する」習慣を長く持たなかったことに一因があると思う。日本では多くの場合、「話し合い」は常に空気作りや「話し合いをしました」というアリバイ作りにしか使われない。議論を徹底的にやりながら、人間関係に傷をつけない、というアクロバティズムをもたない。
今も中韓を詰るネトウヨは多い。人の信条はその人の自由だから、その考え方をもつこと「そのもの」をぼくは否定しない。だが、そのような口調を他の人物を目の前にしてキープできるかは、常に確認しておいてほしい。そしてその人物が「いや、今まで黙ってたけどオレ、実は中国人なんだ」と言われた時絶句しないような覚悟くらいはしておいてほしい。あるいは、親に「実はあんたも朝鮮人の血が混じってんのよ」と言われてもね(厳密に調査すれば、そういう可能性はけっこうあります)。他国を批判するなら、そのくらいの覚悟は当然必要だ。「誇り高い」日本人なら、せめてね。
ぼくが化学療法学会を批判した時、常に頭にあったのは学界の重鎮でいつもお世話になっている人たちだ。そういう人たちを目の前にしても、同じ口調で同じことが言えるか。それを念頭において、ぼくはソーシャルネットワークに意見してきた。だから、同じことをどの学会員を直接目の前にしても、言える。ぼくが要求しているのは化療学会が学会としてきちんと筋を通し、学術集団としてまっとうな振る舞いをするべきだ、という要求だけである。だから、議論が終わればすぐにノーサイドである。残念ながら、それを日本にありがちな情念の闘争と勘違いしている人もいるようだし、そういう勘違いそのものをこちらがどうこうすることもできないのだが、まあそういうことである。
「殴って良いと判断すればタコ殴り」の日本文化は、日本のいじめのエートスにシンクロしているとぼくは思う。大人の世界でもいじめが蔓延しているのだから、子供にいじめをやめさせられないのは当たり前だ。これ以上殴るとあかん、という「加減」を理解するためには、殴ったり殴られたりの体験はある程度必要だ。それを「ある程度」で収める度量を学ばせなければならない。
しかし、そのような「加減」を教わっていないから、おとなになっても「タコ殴り」を正当化する。たとえ正当であったとしてもタコ殴りはよくない、と教えるべきなのだ。「正当な理由」なんていくらでも見つけることはできるのだから。まったく同じ論拠でいじめで自殺のあった教室の担任教諭も「いじめては」ならない。タコ殴りにしてはならない。いじめではないやり方でこの問題と取っ組み合わねばならない。
いじめ問題の克服のため必要なのは「どんなに正当らしい理由があってもいじめてはだめだ」という教えである。大人の世界でもそうだ。現在の医学医療の世界では露骨に喫煙者を「いじめ」にかかっている。その自覚もないままおこなっている。医療者は「いじめ」に加担してはいけない、という倫理性は学的に医療倫理を学ばなくたって分かるシンプルな原則だ。この程度のシンプルな倫理性も発揮できずに医療倫理を語ってはならない。
よく分かりました。有難うございます。
その誠実で軽やかな人格に敬服します。私も頑張らねばと背筋が伸びました。
投稿情報: Chihayaflu | 2015/09/01 01:38