献本御礼
以前、「ナラティブと呼ぶのはもうやめない?」という主旨のブログを書いたが、もちろんそれはナラティブというコンセプトそのものを否定するものではない。ただ、業界用語になってから名称に余計な文脈が付けられているので、それを「おはなし」とか「ものがたり」(たぶん、前者がベター)みたいな読み替えをして、概念を「専門家」の手から切り離しませんかって話だ。EBMがそうであるように、プロフェッショナリズムがそうであるように、インフォームド・コンセントがそうであるように。
で、本書は地域で終末期医療を実践するドクターの「ものがたり」だ。が、読後の感想は「そうだよねえ」であった。驚きはほとんどない。良い意味で。
大学病院にいると、こういうのとは真逆の世界だと思われがちだがまったくそんなことはない。なにしろ殆どの人は大病院で死んでいくので、大学病院は終末期医療の「現場」そのものなのである。ただ、そう認識しているヒトがほとんど中にいないだけの話だ。
もともとぼくの医療モデルは徳永進先生の「野の花診療所」から始まったし、前職の亀田総合病院も「良い病院とはなにか」を突き詰め続ける場所であった。だから、本書にある内容は「そうだよねえ」の話しばかりで、「死は点ではない」(38p)、「医療者と家族がお互いにすべてを理解して同意することはありえない、というところから始めるべきでえある」(61p)、「どのような高齢者であっても、診断をするというプロセスを大事にしていかなくてはならない」(98p)、「医師の意見を求めるべきかどうかについて適切に判断できる看護師なおどの能力、専門性を養っていくことが重要である」(164p)、「手段と目的を履き違えてはいけない。胃ろうはあくまでも手段」(229p)といった言葉はぼくが「ためらいのリアル医療倫理」や「医療につける薬」などあちこちで申し上げてきたことと同じである。
ただし、驚いたこともいくつかあった。一番驚いたのが著者が主治医として患者の葬儀に参列し、弔辞を述べたこと。これはぼくはやったことがない。これからもできそうにない。著者は弔辞を読み終えて「達成感」があったというが、それはそのとおりだろう。達成感の大きさは、その行為の困難さとパラレルだからだ。ぼくにはまだその勇気がない。
あと、胃ろうを「口から食べるためのツール」として使っていた事例。これも今まで考えても見なかった発想で「へ〜なるほど〜」であった。
プラティニのユニフォーム、もってたら着て死にたいですよねえ、とうちにイニエスタのサイン入りユニフォームが飾ってあるイワタは我が意を得たりの気持ちになったのだった。
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