ぼくはずいぶん前から日本のジャーナリズムの質は低いと言い続けている。
「高い」「低い」は相対的なものだから、比較対象を必要とする。僕の場合は1990年台から5年間読んでいたニューヨーク・タイムズが基準だ。特に、内科研修医の頃、取材に来たNYTの記者の徹底ぶりには感心した。3ヶ月ぶっつづけで取材を続け、インタビューをし、カンファに参加し、当直にも参加して内科研修の実態を調べあげ、それを3日間の特集記事にしたのである。その徹底した取材と分析の深さは「プロの仕事」と呼ぶにふさわしいものだった。これに比べると、日本の新聞、テレビ、雑誌のジャーナリストたちの仕事はいかにもずさんで、安直である。
もっともアメリカのメディア報道もタブロイドやフォックスみたいな質の低いのもあるし、クリントンの不倫や911に代表されるようにパニックに脆いところもあり、無謬なわけではない。無謬ではないんだけれど、それでも日本のメディアよりはずっとずっと出来が良い。日本のメディアは分析が不十分で、表面的な情報をセンセーショナルに垂れ流すだけだからだ。日本のメディアを読んでも答えが分かるよりも、より謎が大きくなるばかりだ。そして、人の個人情報を平気で垂れ流す無神経ぶりと、自分たちが批判されないような過度な自粛・自己規制。間違いを認めようとしないのも日本のメディアの特徴で、慰安婦の朝日みたいによほど極端なエラーがなければ決して謝罪も訂正もしない。
というわけで、日本のメディアはもう絶望的かな、と思っていたが、必ずしもそうではないことに最近気がついた。きっかけは野地秩嘉氏の「イベリコ豚を買いに」だ。はっきり言ってタイトルだけで衝動買いした本書はずっと積んでおかれてぼくの興味を換気しなかった。偶然、移動中に読んだこの本、、、、筆者がイベリコ豚に惹かれ、その取材のために購入者・販売者になるまでを描く、、、を読んで実に感心したのである。それから野地氏の本を大人買いした。最初に読んだ「職の達人たち」も素晴らしい本だった。
こうしたライターたちの取材は、ニューヨークでぼくらが受けたNYTの記者に通じるものだった。それは、一言で言えば、
「事の真相を知りたい」
という欲望である。米の研修医って何者?イベリコ豚って何?という素朴な疑問。そして、「自分は知らない」という自覚。知りたいという欲望。これがドライブして、1つの取材記になるのである。「食の達人たち」も料理人たちの真実に迫りたい、という真摯な思いが一冊の本をなしている。そういえば以前読んだ「あんこの本」もそうだった。そういえばそういえば、昔はサッカー・ライターたちにも「真実を知りたい」という思いからの選手や監督への長期取材とすばらしい作品が存在したが、残念なことに時間とともにそれは現場との「慣れ合い」=「褒めてるだけ」になるか、「自分が知らない」という自覚を失って上から目線で戦術批評なんかをやるようになり、最近は良い作品は少ない。
閑話休題
多くの日本のメディアにはこの「知らないという自覚」と「真実を知りたい」という欲望がない。最初から自らを「知っている立場」と規定し、自分たちの世界観、物語で結果ありきの作文をする。彼らが政治を語るとき、医療を語るとき、科学を語るとき、犯罪を語るとき、テロを語るときの物語・プロットはすでに出来上がっている。取材は虫食いのように空いた登場人物の名前や事件の日付を埋め込むため「だけ」に行うのだ。
例えば、最近某所で子どもの殺人が起きたが、NHKが殺された子どもについて近所の取材をしていた。とっても明るくていい子でした、みたいな談話が近所の人から聞き出されていたが、そこには「真実を知りたい」という欲望は欠片もない。殺された子どもは良い子でした、という「物語」を予めもっていて、それにピタリと合う談話を探しているだけだ。仮に「あまりぱっとしない子でしたねえ」といった談話があっても没になったに決まっている。逆に犯人・容疑者の方はおどろおどろしい「悪辣な人物」にぴったり来るエピソードだけが選択される。
「食の達人たち」は各エピソードごとに構成や展開が異なり、野地氏の「知りたい」の欲望にそってできている作品だと分かる。解説の川上弘美氏がいうように、それは「おはなし」と呼んでもよいかもしれない。川上氏はそれを「おはなし」ではなく、「物語」と呼ばれるのに違和感を感じる。「物語」にはどこか、最初から作られた規定路線のプロット、というニュアンスがあるからだと僕は思う。似たような伝記ものなのにぼくがテレビの「プロフェッショナル 仕事の流儀」を苦手に思うのもそのためだ。前の「プロジェクトX」もそうだったけど、こういうのは典型的な「物語」だ。「プロフェッショナル」には様々な人物が登場するが、そのストーリーは判で押したようにおんなじ話だけだ。ある分野で活躍する人物。その活躍の1エピソード。でも昔はこんなに苦労を重ねた。「いい話」のお陰で挽回、今の地位を築いた。さらに新しいチャレンジに挑戦。これだけである。それ以外のエピソードは、「物語」にそぐわない、と捨てられるに決まっている。
その領域の本を訳していて言うのもおかしいけど、最近「ナラティブ」という言葉にもちょっと食傷気味だ。「ナラティブ」=「物語」なんだけど、そこには「いい話」でなければならないという前提が内包されている。ナラティブ本には、どうしようもない、共感を換気しない「だめな患者」「困ったエピソード」は登場しない。患者に寄り添っていれば患者が「いい話」、「よい物語」を提供してくれる、というプロットが最初から出来上がっている。リアルな医療現場との乖離がそこにはある。一種の出来レースをそこに感じ取ってしまう。
「いい話」のナラティブだけを追い求めてしまうと、自分のプロットに都合の悪いエピソードは捨象されてしまう。それは長い目で見ると「特定の患者の否定、批判」にもつながるとぼくは思う。喫煙する患者への執拗な嫌悪の言葉が、わりと良心的と思われる医者の口からいとも簡単にえげつなく出されてしまうジレンマはそのためだ。規定路線のナラティブ=物語主義は、自分にとって都合の良い患者をサクランボ摘みし、そうでない患者を憎悪してしまうという困った副作用を持っている。医者が裁判官のように振る舞う、、、judgemental(=judge のメンタリティー)になるのは、そのせいだと思う。
なので、そろそろナラティブはやめて、川上氏のいう「おはなし」に変える必要があるのではないだろうか、とぼくは思う。患者について知りたい。どんな事実でも知りたい。じぶんはそこになんの前提もプロットも「物語」も持ち込んだりしない。どんなに自分の感性にフィットしないエピソードも捨てたりしない。患者を好いたり嫌ったりしない。ただ、患者のそばにいて、彼・彼女を理解したい。私は、まだ患者のことを全然分かっていない。そこに「おはなし」の萌芽が生じるように思う。
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