パブコメが募集されていたので書きました。正直、日本のパブコメは「パブコメを募集しました」というポーズのためになっていることもあるので、どこまで意味があるのかは分かりませんが、以下のように。本文を読まないとチンプンカンプンでしょうが、それはこちらに。
貴重な提言をありがとうございます。内容は包括的で、プロフェッショナリズムを扱うのに充分なコンテンツを持っていると思います。ただ、全体的に文章が硬すぎます。プロフェッショナリズムは内的にも外的にも妥当性がないといけないので、非医療者が読んでも即座に理解でき、腑に落ちるような文章であるべきです。硬すぎる文章は空々しいスローガンに聞こえがちなので、そういう意味でもプロフェッショナリズムの本質から離れてしまいかねません。いわゆるプロフェッショナリズム・マニアの玩具ではなく、万人に共有してもらってこそ意味のあるものだと愚考いたします。
具体的には「医師という職業は、損なわれやすい健康という基本的価値を人々に提供する重要な役割を社会から託され、その役割に生涯かけて貢献することを前提として、法的に業務および名称独占権が与えられ、さらに高い経済的報酬や名声も約束されている」などは悪文の一例だと思います(高い経済的報酬や名声が約束されてるの?という基本的な問題を措いておいても、です)。「傷病を持つ人の生活や感情に関心を持ち、自己学習している」も前後がうまくつながっておらず、「自己学習」の意味があいまいになっています。全体としてもっと地に足のついた文章になることを望みます。
「自己実現の目標の一つとする価値観」には違和感を覚えます。自己実現とは医者の目標でしょうか。そもそも自己実現は自己の問題であり、大切なのは他者(コミュニティーや患者)ですから、ここには矛盾が生じます。アウトカムを目指すならば自己がどうであるかという自己意識すら消滅するのでは、あるいは消滅すべき(忘我)なのではないでしょうか。
「システムの中で社会のニーズに応えられる個人」のシステムの意味が不明です。
「自らの生涯の職業として受け容れている」はスローガンとしてはよいですが、日本特有のギブアップ・転職を否定的に観る態度とシンクロしています。リタイヤする人も多いでしょうから、現実と乖離し、現実と乖離したプロフェッショナリズムは単なるスローガンと堕します。ギブアップの権利は十全に保証されているべきで、それは育児や家事、介護といったプライベートな事情での中断に対する非寛容とも関連します。
「認知的に理解」の意味が不明確です。「理解」とは普通認知的に行われるものではないでしょうか。認知的、というコトバそのものが一般的ではありません。
「自ら考察」も不明瞭です。何をどう考察するのでしょうか。いや、普通は皆それなりに考察しているのではないでしょうか。批判的吟味のことなのか、多用な価値観をベースに詳察することなのか、あるいは内省なのか。いずれにしても「考察」だけだとプロフェッショナリズムを担保してくれはいないと思います。
医学部入学時の「選抜基準」とプロフェッショナリズムは無関係だと思います。医学部入学時に要求されるプロフェッショナリズム、もしくはその萌芽(まだプロではないですから)ではないでしょうか。そしてそれは情報を読んで考察することでは足りないのではないでしょうか。医学部入学時の心構えとして、間違える権利、勘違いする権利、そこから反省して立ち直る権利の価値も充分に考えておく必要はあると思います。要するに、あまり医学部入学時に「こうでなければならない」という規定が強すぎると、かえって後々うまくいかないことも多いということです。
「医学生に対して、多くの社会資源が投じられていることを認識」はドロップアウト権に対する阻害材料になります。社会資源は投じられていますが、その多くは医学生に直接恩恵を与えていない(他のことに使われている)現実も直視しなくてはなりません。社会資源が投じられているから、学習するのではないと思いますし、そのような「見返り」が原資ではプロフェッショナリズムとは呼べないとすら、ぼくは思います。「見返り」はプロフェッショナリズムに対する反語なのではないでしょうか。
「提供された医療が望まれた結果をもたらさなかった場合、その原因が医療の不確実性によるものか、医療側の不誠実や能力の欠如によるものか、患者やその家族が知識の面で判断することは難しく、医療側の人格や道徳性に対する信頼で判断する外はない」は単純に事実に反します。患者・家族も医学を勉強し、それを判断材料にすることは多々ありますし、弁護士や他の医師にそれを肩代わりすることも要請できますから、「人格や道徳性に対する信頼」以外にも材料は多々あるのです。
「弱者の保護の道徳性」は意味が不明瞭です。「の」が続くせいもありますが。あとの「発揮」もよくない言葉です。「弱者を保護するのは大事だと考え、保護に努める」とシンプルに表現すればよいのでは?
「嘘をつくことがない」ことについては議論の余地があります。「ウソ」は「配慮」にかなり近いものですから。医師は誠実(honest)であるべきですが、誠実からくるウソもあります。「がんばっていますね」というencouragement(本当はがんばっていないと判断していても)などがその一例です。
「置かれている環境の中で、可能な限り予防医療の実践に努めている」が医学部「卒業時」の目標になっていることが理解できません。具体的にはどういうことなのでしょうか。
「医師の利益相反の問題に関心を持ち、疑わしい行為への誘いを人間関係を壊さずに断ることができる」は具体的にもっと踏み込むべきだと思います。「疑わしい行為」とはなんのことでしょうか。各人によって解釈がかなり異なると思います。
「社会人として相応しい良識ある行動」も具体性を欠くので、もっと具体的に書くべきだと思います。このようなことは何十年も前からスローガンとして言われていますが、そのくせ医者はしばしば社会人として良識ある行動をとっていない現実を直視すべきです。同業者に(ためぐちなど)無礼な態度を取らない、あいさつや応対、接遇の技術があり、それを実践する、など。
「組織や社会における社会的性差を克服して男女が協働するために努力する」は、社会的性差をなくせ、ということでしょうか。意味が不明瞭ですし、本当にそうあるべきなのでしょうか。「違い」と「差別」を区別する必要があります。寛容とは「違いの存在を認め、それを受け入れ、尊重すること」ではないでしょうか。「違わない」ではなく、「違うけど認める」が目指すところなのではないでしょうか。
「医師の間でも、政治や宗教、結婚や家庭や育児や介護などの面で異なる価値観」には、もう少し踏み込む必要があります。具体的には「医者としての働き方にも異なる価値観がある」です。
「異なる価値観を持つ友人(同級生)とも交流する」、もよくわかりません。同級生でない友人も多いはずです(看護学生とか、バイト先やサークルの友人とか)。「交流する」も意味不明で、たいていのひとは価値観の異なる人とも交流します。交流以上のものが得られて初めてプロフェッショナリズムの萌芽なのではないでしょうか。いずれにしても医学部入学時の選抜「基準」とプロフェッショナリズムはニュアンスが異なるとも思います(前述)。
「組織の維持自体が自己目的化し、社会的使命の遂行や医師としての道徳性に悖ることのないよう留意する」は、非常によい文章だと思います。
「積極的に他の医師や他職種に情報を伝え」ですが、「伝え」るだけでなく、積極的に相手の見解、考えを「聞く」ことも大事です。どちらかというとトラディショナルな医者は意見するのは得意でも聴くのは苦手ですから。
「医療チームの中で役割を持ち、適切に相談・報告・連絡を行っている 」は、当然役割はもっているので、「どういう役割」なのか、具体的に言及したほうがよいと思います。実際の患者ケアに参加、コミットするという内容があったほうがよいと思います(BSLという名の「見学」、ひどいときには「見物」に終わりがちなので)。
「他者に関心を持ち、基本的な礼儀や礼節を弁え、他者の意見に耳を傾け、質問をし、自らの考えを述べている」はとてもよい文章だと思います。
ここで「フォロワー」という言葉が使われていますが、その実その意味が説明されていません。業界用語、流行語はできるだけ避けるべきで、ことさらここにフォロワーを用いる意義は小さいと思います。
「患者の自律性」の尊重と「患者中心」は異なります。先に述べられているように、社会のニーズなど、医療には異なる価値がありますから、患者のオートノミーは十全に保全しつつ、かつ医療リソースは必ずしも患者中心でないことも、あるいはそうであるべきでないこともあります。言葉が空言にならぬよう、リアルな内容でなければなりませんから、「患者中心」というある意味クリシェになった言葉は用いないほうがよいと思います。
「自己の能力を自己最高のレベルに保つこと」は意味不明ですし、文章も美しくありません。ベストを尽くす、でよいのではないでしょうか。
「重要なパラダイムの転換にも積極的に対応する」も意味不明瞭です。重要なパラダイムの転換とはなんでしょうか。「対応」とはどういうことでしょうか。パラダイムの転換にのっかるということでしょうか。それがふさわしくないときもあるのではないでしょうか。例えば医療のビジネス化の風潮など。
「自ら振り返り、自己の限界を知り、360°からのフィードバックを受け容れ、教育を受けて行動を変える能力を持つ」はとてもよい文章ですが、「行動を変える、自分が変わる能力」のほうがベターだと思います。
「研究や学術集会での発表などを通じて」は重要だと個人的には思いますが、多くのロールモデル的なドクターを観察する限り、必ずしもmustではないと思います。研究や学術発表がない医者のあり方は「あり」だと思います。それとも、そこは「など」で回避しているのでしょうか。あまり「など」は活用しないほうがよいと思います。
製薬メーカーからの情報のみを情報源にしない、をぜひどこかに入れてほしいです。深刻な問題です。
「ステップ1~4を、時間をかけても実践する」の「も」の意味が不明瞭でよくない文章です。シンプルに「実践する」でもよいですし、繰り返し取り組む、でもよいと思います。実際には臨床実習開始時の卒業生のほとんどが「ステップ1」ができません。「自分の無知に自覚的であり、自分が何を知らないか認識できる」が入っていたほうがよいと思います。
「辞書を使いながら」はまったく不要だと思います。科学記事は論文とかテキストのほうがよいかもしれません。
「また、他者にとっても時間資源は限られたものであることを認識し、信頼の維持のためにも診療や会合の時間を守る」。、はよい文章だと思います。
「そのため、複数の多様な将来像の中から、予測されるライフイベントも考慮し、また先輩などからのアドバイスを求めて、当面の学習計画を立案する。また予想外のライフイベントやその他の状況の変化に応じて、柔軟に計画を修正する能力を持つ。」、は逆に悪文です。まずライフイベントのような業界用語はよくありません。「予測されるライフイベントも考慮」もよくないです。「考慮」みたいな言葉は何にでも使えるからです。世の中思い通りにいくとは限らないので、柔軟に学習計画は修正できないといけない、という意味の文章ならよいのではないでしょうか。
「5~10年程度先までの自分なりのキャリアプランを持っている」は不要だと思います。よく言われるキャリアプランですが、実際に有用であるエビデンスは乏しく、現実には10年後の自分は予測していない自分であることが多いです(そしてそれは全然悪いことではありません)。
「複数のキャリアに興味を持ち、様々なキャリアの医師と交流する」もプロフェッショナリズムとは必ずしも関係ないと思います。シングル・キャリアに最初から決めている初志貫徹型の人だって多いですから。
「主体的に自らのキャリアを考える」も意味不明です。
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