感染症とリスコミについて新書を出しました。感染症関係者、メディア、行政関係などなどいろいろな人に役にたつと思います。ご覧ください。「はじめに」をここに転載します。
はじめに
なぜ今、感染症か。なぜ今、リスクコミュニケーションなのか。
岩田健太郎といいます。感染症などを担当している医者で、リスク・コミュニケーションの研究もしています。
ではなぜ今、感染症なのか。そしてリスク・コミュニケーションなのか。
本書を執筆している2014年8月、私はあちこちの医療者、医療機関から、エボラ出血熱に関する問い合わせを受けていました。
同年3月以降、西アフリカ各地でエボラ出血熱の流行が続いていたのです。ギニア、リベリア、シエラレオネなどで多数の患者が見つかりました。
エボラ出血熱は死亡率が高く、半数以上の患者は死亡します。現地で感染、発症したアメリカ人も母国に搬送され、エモリー大学病院で治療を受けました。スペイン人の神父はアフリカでエボラ出血熱に罹患、帰国してマドリードで治療を受けていましたが、死亡しました。日本でもにわかに注目が集まっています。
エボラ出血熱は、エボラ・ウイルスと呼ばれるウイルス感染症です。1976年に初めて見つかったこの病気は、流行したザイールの河川の名前をとって「エボラ」と名付けられました。
その後、ノンフィクションの『ホットゾーン』(リチャード・プレストン著)や映画の『アウトブレイク』(ウォルフガング・ペーターゼン監督、ダスティン・ホフマン主演、1995年)などにより、一般の人たちにも有名になりました。もっとも、映画の方はエボラを参考にした架空のウイルスですけど。私も学生時代に、ペーパーバック版の『ホットゾーン』を読んで、この感染症を知りました。
さて、私は2001年のアメリカで、9・11の飛行機テロの後に起きた「炭疽菌によるバイオテロ」対策に関与しました。2003年には北京で「SARS」対策にも従事しました。2009年には神戸市で見つかった「新型インフルエンザ」症例の対策にも関わりました。――こうやって考えてみると、岩田は行く先々で感染症の流行に見舞われていますね。呪われているというべきか、感染症の神様にもてあそばれているというか。
炭疽、SARS、インフルエンザ、とそれぞれ感染症の種類は異なりますが、共通していたのが「パニック」です。ニューヨークでは、炭疽菌感染と関連が疑われた「白い粉」にアメリカ人たちがパニクりまくり、ドーナツの粉にまで怯える始末でした。SARS流行時の北京の繁華街「王府井」はゴーストタウンのようになり、それはインフルエンザ流行時の三ノ宮も同様でした。
パニックは、クールで理性的な対応を難しくし、人々はよけいな苦労に苦しんだのです。その苦労は、感染症の実被害以上の苦しみを人々に与えました。
2001年の「バイオテロ」の被害者は22名、死亡者はそのうち5名でした。あれだけ全米、いや、世界中が恐怖した問題の被害としては、極めて少ない被害者数と言えないでしょうか。
こうした体験から私は学習しました。感染症のリスクを扱うときは、単に患者を診断し、病原体を見つけ、その病原体を殺して治療する以上の何かが必要であると。感染症の実被害以上に問題となる「パニック」と対峙することが大事であると。
それはすなわち、「コミュニケーション」を扱うことと同義であります。
もちろん、パニックが起きさえしなければよい、というものではありません。逆に感染症のリスクに不感症になって、リスク回避行動を全くとらないのも困ります。
パニックや不感症との対峙――リスクをどう捉え、伝えるか
日本では、先進国ではまれな麻疹や風疹、水痘(水ぼうそう)などが、現在もときどき流行しています。2008年に私が神戸大学に赴任したときも、学内で麻疹が流行しました。学内の対策会議で「また麻疹が流行っています」というコメントを耳にした僕は、麻疹のリスクに日本人がとても不感症になっていることに気がつきました。
諸外国では、麻疹は「起きてはいけない病気」であり、例えばアメリカでは、麻疹抗体検査かワクチン接種の証明書を提出しないと、大学には入学できません。ところが神戸大学では、2007年に麻疹の流行が起こり、さらに翌年の2008年にも流行が起きていたのです。「またか」という感じで。本来なら、2007年の流行の時点で抜本的な対策をとり、「二度と流行が起きない」状態にするべきであったのに、です。
そこで私は発言しました。先進国で麻疹が流行するのは非常識であると。国際都市神戸の、海外からの留学生も多い神戸大学で、その流行を看過するのも非常識であると。したがって、麻疹対策は「二度と麻疹が流行しない」ことを目標にしなければならない、その目標から逆算して、方策を決定すべきである――こう私は意見したのです。
結局、他の先生方の支援も受けて、神戸大学では徹底的な感染症対策がなされるようになりました。現在、神戸大学では、学生の入学時、職員の入職時には、麻疹などの感染症の血液中の抗体か予防接種証明を、(原則として)必要とするようになりました。制度設計には手間もお金もかかりましたが、立てられた目標から逆算すると、それは必要なコストであると了解されたのです。その後、学内では麻疹の流行は起きていません。
このように、リスクに対してはパニックになってもよくありませんし、不感症になってもいけません。恐れ過ぎても、楽観的過ぎてもよくありません。
では「どのくらい恐れる」のが適切な恐れ方なのか。
「恐れ」は主観です。主観に「正しい主観」とか「間違った主観」とかは存在するのでしょうか。いったい専門家は、一般の方にどういうメッセージを伝え、「どのくらい恐れろ」と言うべきなのでしょうか。
この要諦をまとめたのが、本書『感染症と効果的リスク・コミュニケーション』です。
感染症にまつわるリスクを検討し、「どのくらい恐れろ」と言うべきか。どのようなコミュニケーションをとるべきか。感染症という専門領域と、リスク・コミュニケーションという専門領域と、両方から考えてみました。
感染症の専門家が読むと、とても参考になると思います。その他のリスクを扱う方にとっても、リスク・コミュニケーションそのものの要諦は同じなので、一般化、応用できる事項は多いと思います。
さらに、リスクやコミュニケーション一般に興味がある、一般の方々が読んでも、読みやすくて分かりやすい内容になっていると思います。なにしろ、コミュニケーションは伝わってなんぼですから、「伝え方」については本書でもとても気を遣っています。
感染症の専門家は、感染症や原因微生物、その診断や治療、予防については、高い専門知識や技術を持っています。しかし、感染症においては、感染症「だけ」見ていてはいけません。単に感染症を診断したり治療するだけでは不十分なのです。その周囲にあるコミュニケーションに配慮し、いかに効果的にそれを行なうかもとても大切になるのです。
なぜ医療現場のリスコミはうまくいかないのか
リスク・コミュニケーション(=リスコミ)という用語は、医療者の間ではとても有名です。だれもがコミュニケーションの重要性を口にします。
しかし、そのわりに「効果的な」コミュニケーションはとられていません。リスク・コミュニケーション関連の文献やプレゼンテーションを見ていても、どうも「ポイント」を外しているような気がしてなりません。
リスクを扱ううえで、コミュニケーションは「効果的」でなければなりません。ただ、「コミュニケーションをとりました」ではだめなのです。
では、どうして医療現場のリスク・コミュニケーションはうまくいっていないのでしょう。リスコミに関するレクチャーや資料もなぜ、なんとなく「ピントを外している」のでしょうか。
それは、海外のリスク・コミュニケーションの資料や文献を、「そのまんま」直輸入しようとしているからだと思います。
こうした海外の教科書の引用や、専門家の「分析」、用語の「分類」を並べた文献を読み、プレゼンテーションを聞けば、リスク・コミュニケーションという学問領域には明るくなり、お勉強はできます。
しかし、お勉強をすることと、実際にやること、実際にやることと、実際に「できること」にはギャップがあります。お勉強をして専門用語に詳しくなったんだけど、結局「結果が出ていない」ということはよくあることです。
それは「人の心に届く」メッセージか
例えば、あるリスク・コミュニケーション関係のスライドには、次のようなことが書いてありました。
リスク・コミュニケーションとは、個人、集団、機関の間における情報や意見のやり取りの相互作用の過程である(略)。ポイントは「相互作用的過程」。単にリスクやそれに関係する意見交換や情報交換にとどまらず、利害関係者(stakeholders)がお互いに働きかけあい、影響を及ぼし合いながら、建設的に継続されるやり取り
私はこれを読んで「全然いけてないなあ」「言葉が上滑りしているなあ」と嘆息しました。
とにかく、日本語の使い方が絶望的によくありません。おそらくどこか英文の教科書からとってきて直訳したんでしょう。
「相互作用の過程」は、さしずめ「interactive process」か何かでしょうか。第一、「pro-cess」を「過程」と訳すのがよくない。このときは「相互作用」と訳すだけでいいんです。「それに関係する」も良くない言葉ですね。「その」と言いさえすれば良いんです。
こういう細かい配慮がないところが「いけてないなあ」と感じさせてしまう。コミュニケーションを語っているのに、コミュニケーションが稚拙であるという逆説です。
我々がみるリスク・コミュニケーションの教材の多くは、このような「上滑りした」コンテンツです。情報を飲み込んで、そのまま吐き出しているだけなんです。咀嚼して、消化して、自分のものにして、自分の言葉に換えたメッセージになっていないんです。
「自分の言葉」になっていない言葉を使ったメッセージが、人の心に届くわけがありません。人の心に届かないメッセージが、人を動かすはずはありません。人を動かさないメッセージが、「効果的な」リスク・コミュニケーションを生むはずがないんです。
一般的なコミュニケーションでも、「人の心に届く」ことが重要です。リスク・コミュニケーションはあくまでも、コミュニケーションの一亜型に過ぎません。普通のコミュニケーションがちゃんとできていないのに、リスコミだけできる、という法はありません。
言葉遣いの細やかさや音の響きに配慮せずに、リスコミやコミュニケーション一般を語るのは、いわば「論語読みの論語知らず」ではないでしょうか。「効果的なレクチャーについて」というつまらない講義を聞くような思いがします。
「一所懸命やりました」のその先へ――技術、準備、訓練、応用、精神、真心……
どちらかというと、日本ではあるカテゴリーについて、「やりました」で満足してしまう傾向があります。
日本の多くの医療機関では、「感染対策」というと、感染対策チームを作ることや感染対策のための会議をすることだと勘違いしています。チームを作ったり会議を開くのは、感染対策の手段に過ぎません。その結果、感染症や薬剤耐性菌が減るという「結果(アウトカム)」を得ることが目的なのです。
その結果を得ないまま、ひどいときには結果を吟味すらせずに、「一所懸命、感染対策やってます」といって満足してしまうんです。手段と目的の顛倒ですね。
日本の医療者はどこかアマチュアなところがあって、「一所懸命やっているからいいんだ」と考えてしまいがちです。しかし、一所懸命やるのは前提であり、これも目的ではありません。目的は「一所懸命やった」その先にあります。
高校野球はアマチュアスポーツなので、炎天下で一所懸命やっていること「そのもの」が感動の対象になります。まずいエラーをやっても、試合に負けても、「一所懸命やった」ことで許される。
しかし、プロ野球の世界では、「一所懸命やりました」だけではファンは許してくれないはずです。私が日本の医療者にどこかアマチュアリズムを感じてしまうのは、そのためです。
リスク・コミュニケーションにおいても同様なものを感じます。「リスコミについての講義を聞きました」とか「専門用語を覚えました」だけで満足してしまう。その先にある結果が出ていない。結果を求めてすら、いない。
まだまだ、日本では効果的な(すなわち役に立って結果が出る)リスク・コミュニケーションは普及、定着していないのです。それは、感染症領域についても同様です。
感染症の周囲にあるパニックや不感症をどれだけ減らすことができたのか。感染対策にどのくらい寄与したのか。そういう結果が十分に求められておらず、吟味も十分でなく、プロフェッショナルな内省が足りません。
リスク・コミュニケーションにおいては、単に「お勉強」するだけでは不十分です。コミュニケーションには技術が必要です。準備や訓練も必要です。刻々と変化する状況に対する機微や応用も必要です(教科書のまんまやっていてはいけません)。背後にある精神や真心も必要です(精神や真心を欠いたコミュニケーションに、良いコミュニケーションがありえないことから、それは当然です)。もちろん、感染症におけるリスク・コミュニケーションにおいてもそれは同様です。
本書は、このような「リアルで」「効果的な」感染症のリスク・コミュニケーションを論じています。感染症の恐怖におののく一般の方にも、感染症のリスクを伝える立ち場の専門家の方にも、等しくお役に立てれば幸甚です。
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