最近読んだ随筆の中では小林秀雄くらい図抜けて素晴らしかったです(二人の対談集もありましたね)。あと、教育に関するコメントは「先生はえらい」以来、納得、おっしゃるとおり、で膝を打って読みました。以下、気に入った部分をランダムに抜き書き。60年代の本とは思えず、今も全然通用するコメントばかり。
人に対する知識の不足が最もはっきり現れているのは幼児の育て方や義務教育の面ではなかろうか。(中略)早く育ちさえすれば良いと思って育てているのがいまの教育ではあるまいか。(中略)すべて成熟は早すぎるよりも遅すぎる方が良い。これが教育というものの根本原則だと思う。
ギリシャ文化にはもう一つの特徴がある。それは知性の自主性である。これはまだほとんど日本にはいっていない。文化が入っていないということは、その文化の貴重になっている情操がわかっていないということにほかならないが、ぜひこれはとりいれてほしいものだと思う。
知性に、他のものの制約を受けないで完全に自由であるという自主性を与えたのはギリシャだけだった。インドでもシナでも知性の自主性はない。これらの国で科学が興隆しなかった理由がそこにある。
認識するものとしての理性はデカルトによってさらに整えられたが、結局は理性は文化に近づく手段にすぎない。このことに気づき始めたのはニュートンの時代である。彼は「自分は大海を前にして磯辺で貝殻を拾っている子供にすぎない」といっているが、これは理性を手段として自分の無力さがわかるとともに、前面に限りない大海があることが漠然と感じられるのを示している。この大海とは文化それ自体にほかならない。
よい情操をつちかうことの大切さは、いくら強調しても強調し過ぎるということはないだろう。たとえば小学校三、四年生のころは、心のふるさとをなつかしむといった情操を養うのに最も適した時期ではあるまいか。
数学の属性の第一はいつの時代になっても「確かさ」なのだから、君の出した結果は確かかと聞かれた時、確かなら確か、そうでなければそうでないとはっきり答えられるようにしておいてほしい
(次は引用にあらず、岩田の解釈)。日本は日本的情緒の国で、それは善行を分別智がいらないままで行えることである。それを教えるのが道義教育で、それは「他を先にし自分を後にせよ」ということである。教育や政治はこれに合わせて作るしかなく、特に義務教育は重要なのである。義務教育の要諦は「道義的センス」をつけること、そのことにある。
いま、たいていの中学、高校では答案が合っているかどうか生徒にはわからない。先生が合っているといえば合っているというだけで、できた場合もできなかった場合もぼうっとしている。本当は答えが合うことよりも、自分で合っていると認めることの方が大切なのに、それがわかっていない。
グループ活動などといって、ひとところに大勢集めて勉強させるのもよくないことで、何にもならない。ボスができるばかりである。ボスができてからなら道義の入れようもない。言語道断なことをするなといいたい。
母は子に信をどう教えるかといえば、信頼を裏切らないようにすればよいのである。幼児が母の手をしっかり握っていて、向こうから知人がやってくる。そのとき挨拶のために子供の手を振り払うと、それ以後は知った人に会うたびに手を振り切られはしないかとびくびくするようになる。
人だから一つぐらい長所は必ずあるだろう。それを大きくクローズ/アップすればよい。ただ、競争意識をあおるのは害あって益のないものであろう。
しかし、また考えれば、日本は滅びる、滅びると思っていても案外滅びないかもしれない。というのは、日本民族はきわめて原始的な生活にも耐えられるというか、文明に対するセンスが全く欠けているというか、そういうところがあるので、自由貿易に失敗して、売らず買わずの自給自足となっても、結構やっていけそうにも思えるからである。先日、故障で停電したが、家中のだれも直し方をしらない。ローソクを頼りにふろにつかりながら、ああ、万事これでいけば心配することはないと思ったことだった。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。