「精神現象学」を読んだ。ようやく読んだ。
本書にはビビっていた。なのでなかなか手が付けられなかった。誰もが「精神現象学」は難しいと脅かす。哲学を専攻しない自分が読んでも分かる訳ない、というビビリが先に立ち、解説書に逃げていた。
まったくもって愚かなことに、「日本語だと分からないけど、英訳なら分かるよ」みたいなことを誰かに言われ、数年前に、その気になって読み始めた。さっぱり分からない。というか、長い長い「まえがき」を読んで、ふうふう言ったあとに「はじめに」が来て、そこで萎えた。半分くらい読んで挫折。kindleに埋もれたままだ。
そんなこんなだったが、偶然ショーペンハウアーとフォイエルバッハに触れる機会があり、彼等がヘーゲルをえらく批判しているのを見て、なんとなく論点が見えてきた。で、今度は背伸びせずに日本語でトライ。
日本語なこともあり、その訳も読みやすく、今回は読了できた。なによりもこちらが苦手意識を持たなかったのが大きかった。この顔にだまされるけど、本書が書かれたのはヘーゲルが37歳のとき、今のぼくよりずっと若かったのである。
もちろん、本書は難解だ。でも、それは老熟の難解ではなく、若さいっぱいで筆が滑ったり、話が脱線したり、論理が飛んだり、ねっとりと粘着して議論したがる、若い難しさだ(と思う)。「まあ、30代だとこういう文章になることもあるよね」とこちらがレイドバックして読めば、それほど苦痛ではない。
ぼくの理解だと、ヘーゲルは要するに
(前提を受け入れる)形式主義はあかん。
真理は一所懸命考えねば分からん。
そのときは反対概念とつきあわせてぐるぐる考えなあかん。
そうすれば、精神は真理と合致する。「物自体」は分からんとかいうカントは間違ってる。
ヘーゲルの「絶対精神」の概念は、後にフォイエルバッハ、さらにマルクス・エンゲルスに批判される。人間がどんどん真理に近づいていって理想の人間/社会/国家となる、という今から見るとかなりナイーヴな発想も、その後生まれるナチスドイツやスターリン的全体主義を考えると、ちょっぴり失笑物かもしれない。
それでも、(前提をもった)形式主義はあかん、というヘーゲルの意気込んだ哲学は、形式主義に満ち満ちた日本の学問の世界ではかなり耳が痛い話なのではないだろうか。この点はフォイエルバッハもマルクスも継承したのであり、フォイエルバッハはヘーゲルの弟子でありながらヘーゲルを否定し、しかしヘーゲルの精神は継承したのだとぼくは解釈する。日本の場合、松下幸之助門下が典型例だが、「語録」を唱える信者になり、その実先達(例えば松下)の精神は失われる。日本ではヘーゲルとか弁証法とかいっても、結局形式主義に終わることが多く、それは多くの「マルクス主義者」において漫画的にそうだったんじゃないだろうか。
ちょっと話はずれるけど、安倍首相が「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」の報告を受け、それは集団的自衛権を容認する物だった。はじめに結論ありきの「御用学者」の委員会は日本政府や官僚の常套手段である。そこには「すべての前提を否定し」、形式主義を廃し、そして対立概念との弁証法を繰り返すといったヘーゲルの精神は微塵も感じられない。「己の意見が変わるような覚悟ができている状態で」行う対話というのはまったくない。雄弁と、しゃんしゃんがあるだけだ。
もっとも、「他者の言葉を受けて自分が変わる覚悟」なんてあれば、最初から集団的自衛権なんて議論すらされなかったんでしょうけど。
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