内田樹先生が、日本の良心とおっしゃっていた宮崎駿、司馬遼太郎、そして村上春樹。このうち2名と堀田善衞(宮崎駿引退で一躍有名になった、、、)の対談。
いつも雄弁多弁な宮崎駿が本書ではずっと静か。ご本人がおっしゃるように「書生」に徹している。その気持、とてもよく分かる〜ぼくも内田先生や池田清彦先生の前ではそうだから。
で、博覧強記の司馬・堀田の多角的な世界の見方に圧倒されます。彼らは現在を歴史的に見る習慣がついていて、それもそれぞれの立場から見る習慣がついている。なぜ、ロシアはそのときこうしたのか、なぜトルコは、なぜアイルランドは、、、、そしてアメリカ中心主義やヨーロッパ中心主義や中華思想や儒教や天皇制やキリスト教やイスラム教や仏教や、いろいろなイデオロギーから徹底的に自由。日本の側からしかものを考えることが出来ない我々には、実に啓蒙的だ(目の前の暗闇に光を灯してくれる、、の意味だから啓蒙は全然差別語ではない、念のため)。中国やソ連をばっさり批判するなど、価値相対主義からも自由。その「ばっさり」は単なる極め付けではない深い知性に裏打ちされているから、なおすごい。相対主義者やマイクロな学者には真似ができない。
彼らは第二次世界大戦を体験しており、3人が全て戦争を蛇蝎の如く嫌悪し、それは体感として嫌悪している。ぼくらのように頭のなかで考えた観念として戦争を嫌うのではない。それにもかかわらず、軍艦や飛行機には夢中になる。このような多重性が彼らの知性をさらに複雑にしている。「軍艦をカッコイイなんてケシカラン」みたいな揚げ足取りは彼らのような巨大な知性には蟻のように小さな足掻きである。
ぼくも長く誤解してたんだけど、宮崎駿は左翼の人だと思ってた。「ホルス」を見れば、そりゃねえ。でも、宮崎駿は学的な左翼ではない。「資本論」すらおそらくマジメに読んでいない。
というか、宮崎駿は知識人でも文化人でもなく、ひたすら自分の感性に正直にアニメをつくるだけの人なのだ。ただただ職人なのである。だから、発言も学的には眉唾なものが多いし、議論にはとても堪えられない。だから、司馬・堀田のまえではひたすら寡黙なのだ。司馬さんが気の毒に思って(たぶん)ときどきアニメの話を振った時だけ、しゃべりだす。
それなのに、僕らは勝手に宮崎駿の映像に「文化」や「思想」を読み取り、彼に文化人の役柄を押し付けようとする。ナウシカに環境問題を読みとり、トトロに教育論を読み取る。宮崎駿の「昔は良かった」は知性ではなく、感性の代物なのに、それをぼくらはマジメな「現代批判」と受け取る。だから、一時期ぼくは「学的に弱い」宮崎駿から離れたのだ。思い込みも甚だしかったのだけど(まあ、宮崎駿自身、「もののけ姫」前後は自分を文化人だとうっすら勘違いしてたとも思うけど、ここだけの話)。
宮崎駿のロジックでは、どの知識人も論破できない。でも、カントもヘーゲルもデカルトもアリストテレスにも、あのような感性に訴えるアニメを作る力を持たない。その一点にのみ、宮崎駿の絶対的な価値がある。司馬遼太郎や堀田善衞にも、それはもちろん真似できない。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。