日本の医者が、ハートのうえでは100点満点なのに、頭のほうがいけていない、少なくとも「医療」という観点からはいけていないという話をしました。
同様のことは、医療においてやはり重要な役割を担っている、看護師さんにも当てはまります。すくなくとも、一部の看護師さんには。
さて、少し話をずらします。
記憶が正しければ、ぼくが医学部5年生だったとき、初めて厚生省(当時)は大学外での臨床研修を公式に認めました。で、ぼくは宮城県のある病院に研修に行きました。まあ、研修ついでに東北旅行がしたかったのです。今でもあるのかな。青春18切符で、鈍行列車の床に新聞紙を敷いて宿代をケチりました。
その病院は、厚生省から通知は来たものの、学生の教育なんてしたことがない。どうしようというわけで、そこの内科部長が名案(たぶん、苦肉の策)を思いつきます。毎日ぼくにコメディカルにくっついて働くよう、申し渡したのでした。で、月曜日は看護師、火曜日は薬剤師、水曜日は検査技師、、といろいろなコメディカルと朝から夕方までくっついている、というのがぼくの初めての病院実習でした。
で、実習して分かったこと。
それは、医者はかくも周りのコメディカルから恨まれているということでした。
そして、その恨みをコメディカルは口にすることはできない。ひたすら我慢して、言いたいことも言えないのでした。ま、看護師は少し例外ですが、それでも彼女たち(当時はナースといえばほとんど女性でした)は言いたいことも言えずに、相当遠慮しています。
その恨みつらみを島根医大の5年生で利益相反に全く抵触しなそうなぼくにぶちまけたのでした。「医者はここがひどい、あそこがだめだ。おまえさんも、大きくなったらああいう医者になったらだめよ」と。
今でも、このときの1週間の体験が、ぼくの診療のひとつのバックボーンになっています。あるいは、「普通の医者があんまり考えないようなやり方で考える」ことの土台にも。
それはそうと。
日本の看護師は、基本的に「思考停止」であることをよしとしてきました。判断、指示を出すのは医者の仕事、看護師はこれに粛々と従う。
いや、粛々と従っているとあれもこれも押し付けられて大変なので、そこに抵抗が生じます。とくに、日本の医者はちょっと油断するとすぐに無茶な検査や治療を強要しますから(善意から来てるんですけどね)、油断をしていると大変なことになります。これができません、あれができません、と「できない理由」ばかりが増えていきます。
これは看護師だけでなく、検査技師や薬剤師なども同様です。医者が無茶を言い、彼らは萎縮して防衛的になり、「できるだけなにもしない」という逃げ腰体質になっていくのです。どちらが悪いんでもありません。そういうものだったのです。
今はどうだか知りませんが、ぼくが医学生、研修医の時の大学病院や「国立なんとかセンター」の看護師さんは、こういうパターンが多かったです。採血はしない、点滴はとらない、ただただ延々と申し送りと看護記録をつけている。患者さんが急変しても「今、申し送りしてるんで」と冷たく返される。気がつくと、朝から晩まで申し送りをしてるんじゃないか、、、というのは極端ですが、まあ、そんな感じだったわけです。
そのつけは、医者に回ってきます。採血も点滴も医者の仕事になるからです。そして、そのつけは患者に回ってきます。病院というのは予約をとっても予約時間を全然守ってくれない、21世紀の現代においては稀有な場所ですが、それが常態化している理由に看護師のサボタージュがあるのです。
本来であれば、「患者が遅滞なく必要な医療を受けるためにはどうしたらよいか」という問いを立てて、そこから逆算すれば、「点滴を取るのは医者か、看護師か」みたいな権利闘争的な発想は消失するはずです。しかし、伝統的に医療の世界は分業主義にして他者に介入せず、のところがありました。医者の仕事に看護師は口を出さず、看護のことは看護部マターなので部外者は口をだすな、だったのです(いや、現在形?)。でも、患者のことは「医療マター」であり、看護部マターでもなんでもありません。ここに思考停止、問いのたて方の間違い、が生じているのです。
とはいえ!
最近、このような看護師の思考停止常態は良くないんじゃないか、という動きがでてきています。例えば、単に命令に従うだけの行動主義的教育ではなく、「自分の頭で考えられる」看護師を育てましょうよ、という流れが起きています。また、看護師にもある程度の判断、指示能力と権利を賦与したらどうか、という議論も起きています。
NP,ナース・プラクティショナーというその概念は、アメリカではぼくが研修医の時には「常識」になっていましたが、今でも日本には導入されていません(日本医師会資料 http://dl.med.or.jp/dl-med/teireikaiken/20090603_2.pdf)。患者の安全を表向きの、各業者の既得権益を本音の理由にして多くの反対意見が出ていますが、すでにこの連載で述べているように、医者に判断を任せていても、患者の安全は担保できていないのです、全然。
むしろ、いろいろな専門職の意見や判断を取り入れたほうが、より豊かな医療の姿になるとぼくは思います(同様のことは、薬剤師など他の職種にも言えます)。
行動主義から、自ら考える看護教育へ、、、と方向転換を模索している看護業界ですが、「看護のことは看護マター」というセクショナリズムは依然、高い壁(バカの壁?)になっています。
繰り返します。医療における「知性」とは、「答を出すこと」ではなく、「問いをたてること」です。問いをたてる、とは他者の言葉に耳を傾けることに他なりません。自分たちの仲間だけで集まって、似たような価値観の人たちだけでシュプレヒコール的にスローガンを繰り返しても、それは「問いをたてる」ことにはつながりません。
成人学習理論なんて偉そうなことを日本の教育界はよく言いますが、その実態はほとんどが「成人学習理論を受動的に丸呑みにしているだけ」というブラックジョークのような諧謔です。成人学習の真似事を、ままごとをしている幼児にすぎないのです。
看護の壁は崩されなければなりません。内側から、外側から。看護は医者に十全に物申し、医者はそれに耳を傾ける。その逆も同様。卵の殻を、内からひよこが、外から鶏が同時につつく「啐啄之機」のように(ちょっと使い方おかしいけど)。
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