[心得20]で乳がん検診が、世界的にもめにもめまくっていることをご紹介しました。日本ではこういう議論を「なかったこと」にしてしまい、賛成派と反対派がまったくバラバラになって自説を主張する傾向にあります。困ったもんだっち。
さて、物事の分類は恣意的です、というのが構造主義の考え方です。男と女は違うといえば違うし、「同じ人間」といえば同じ人間とも言えなくもありません。違いはあくまで相対的。それを「違う」「同じ」と主張するのは、主観です。
で、「がん」もまた、「全てのがん」を同じという見方もできますし、「個別のがん、ひとりひとりのがんは全て違う」という主張も可能です。これもまた、主観です。主観であるがゆえに、このへんの言い争いは、ただただ不毛です。
「がん検診」も然り。「乳がん検診」と「他のがんの検診」は違うかもしれません。「乳がん検診」でも40代のそれと、50代のそれは違うかもしれません。あるいは、日本人とそうでない人とは違うかもしれません(大差ないかもしれません)。
で、このへんの「同じ」「違う」をもう少しクールに見てみましょうよ、という意見がでてきています。
「がん」という言葉は死に至る病を連想させます。しかし、「がん」の全てが死に至る病でないことは、現在ではわかっています。1「がん」を持っていても天寿を全うできる人。2ゆっくりと進行する「がん」。3ものすごく早く進行する「がん」。様々です。1はがん検診の意味がありません。がんを見つけても、どうせ治療は必要ないのだから。勘違いして治療してしまい、その副作用に苦しんでドツボ、の可能性が高いです。3もまた、がん検診が役に立たない可能性が高い。せっかくがんを見つけても、すでに進行していて、治療が効かない可能性が高いからです。そうすると、選択肢2、その間にある、「中庸のがん」をターゲットにするのが望ましいです。
医療とは、つまるところ「中庸」の世界です。診断しそこないはよくありませんが、診断しすぎも一種の「誤診」です。治療のしそこないはよくありませんが、治療のしすぎもやはりよくないです。ちょうどよい「塩梅」を模索するのは、微細で難しい作業です。どのへんの「中庸」がベストな「中庸」か、を模索するのです。
乳がん検診と前立腺がん検診は、がんをたくさん見つける一方で、がんでないものも「がん」と勘違いしてしまう間違いをたくさん行なってしまうリスクがあります。不要に乳房を切ったり、前立腺(ペニスの奥)に傷をつけるのは問題です。両者には一長一短があり、それゆえにどのように行なうか(あるいはそもそも行なうべきか)、世界中でもめています。
最近、リスクの高い方への肺がん検診(新しいやり方のCT)は肺がんの死亡率を減らしてくれる可能性が浮かび上がって来ました。大腸がん検診や子宮がん(子宮頸がん)検診は、がんを減らして、その害を減らしてくれる可能性が高いです。
医療においては、「やるか、やらないか」というシングル・クエスチョンではなく、「だれ」に対してやるのか、「なにを」やるのか、「なんのために」やるのか、結果は「どうだったか」という、複数の質問が必要です。がんの世界は複雑なのです。
というわけで、「がん」という一言で全てをチャラにしてしまわず、世の中にはいろいろな患者のいろいろながんがあるのだ、という多様性を飲み込んで、この問題を検討する必要があるのです。
(参照: Esserman et al. JAMA. 2013;():-. doi:10.1001/jama.2013.108415.)
とはいえ!
「がん」には多様性がある、という話でした。その「進行しないがん」は、いわば近藤誠氏の「がんもどき」と同義だと考えてよいでしょう。彼の意見は長く「暴論」とされてきましたし、今でもそう思われていますが、なるほどなあ、と頷けるところも多いんですよ。
でも、日本の医者は実は議論がとても苦手です。議論とは、相手の言葉を聞き、そしてそれを飲み込んだ上で自分の意見を述べ、それを重ねていって「よりよい答え」を模索します(こういうのを弁証法というのです)。しかし、[心得22][心得23]で指摘したように、日本の医者は質問すること、「問いを問うこと」、「相手の話を聞くこと」がとても苦手です。小林秀雄ふうに言えば、「雄弁」なんです。レトリックなんです。自分の意見を一方的に伝え、相手の言葉に耳を貸したがらないのです。だから、近藤誠氏のような存在は全否定。「暴論」の一言で片付けてしまいます。
医学系の学会にいくと、シンポジウムというものが開かれます。でも、その実態はシンポジウムではなくて、ほとんどがシンポジストのミニレクチャーと質疑応答だけです。シンポジスト同志が対話を交わし、よりよい概念(アウフヘーベン)を目指すことはほとんどありません。
近藤誠氏も、「相手の言葉に耳を傾けない」傾向があります。既存の学術団体を全否定です。既存の学会も近藤氏も、間逆な意見を述べていながら、その考えの根底は同じです。それは、「俺は正しくて、相手は間違っている。ピリオド」です。
たいていの場合、全面的に正しかったり、間違っている人物、団体は存在しません。誰の言葉にも、それなりに傾聴すべき見解はあるはずなのです。一寸の虫にも五分の魂。盗人にも三分の理。一寸先は闇。あ、それは俺の人生か。
「がん」が多様であることを説明しました。であれば、それに対する対応法も「多様」であるべきです。検診をする、しない。化学療法をする、しない。○○をする、しないという二元論は、個性と多様性の否定です。どちらの選択肢も残しておき、「だれに」「どういう文脈で」という条件探しをすべきなんです。
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