sympathyとかempathyという言葉があるが、他者の苦しみを自らのものとするのは極めて困難だ。また、それが本当に可能であれば、我々医者のように日常的に「他者の苦しみ」につきあっている連中はとてもじゃないが、やってられない。ポール・ファーマーのような聖人かつ巨人か、狂人のみが他者の苦しみを我が身のそれと同化させつつ、日々の業務を行うことができる。聖人でもなく狂人でもない我々凡人にできることは、せいぜい「他者の苦しみ」の存在に自覚的でありつつ、「それはとても理解できないよねえ」と嘆息することだけだ。聖人でも狂人でもなく、かつ「俺は患者の気持ちになって診療している」という医者がいれば、それは偽善者だ。
我々は他者の苦しみについて、どこまで「偽善者でなく」いられるか。これは深刻な問題だ。東日本大震災の苦痛や苦悩は続いている。その苦痛や苦悩を我々はもう忘れてしまっていないか。なかったコトにしていないか。援助・支援に疲れていないか。「距離」が離れた四川や、アフリカや、ハイチや、インドの悲惨はどうだ。かくものんきでぼんやりしている我々は、報道されない悲惨にかくも残酷にえげつなくも無関心になっていないか。
という話をクラインマンらはアフリカの悲惨とその報道に見る。その「見る」という行為のエンターテイメント性の矛盾を暴き出す。我々は東日本大震災の津波の映像におののきつつ、どこかそれを「楽しんで」いなかったか。えぐり出すような指摘である。
ポール・ファーマーは文化的違いを他者の悲惨を寛容する言い訳にするなと主張する。文化人類学者にして医者、学者だが現場の人間であるファーマーらしい信念だ。ロックは日本とアメリカにおける脳死と移植の考え方の違いを論じる。多くの「学者」は日本の文化はアメリカのそれと違うから脳死は許容できないという。しかし、文化の違いは他者の(レシピエント候補の)悲惨を寛容する言い訳になるのだろうか。ファーマーならそう言うだろう。
日本固有の文化なんて存在するのか、それがどういうものなのかはぼくは知らない。しかし、「日本の文化」であること「そのもの」が事物をスルーさせる言い訳にはならないことだけは、分かる。日本の文化という根拠で自殺(腹切り)を寛容してはいけないだろう。日本の文化という根拠で男女差別を正当化してはいけないだろう(老いては子に従え?)。だから、脳死・移植に反対する人たちは(ロックが揶揄するような)情緒的、感情的、感傷的な「日本文化固有論」でもってすべてをチャラにしてはいけない。反対するなら、もっと突っ込んで、もっと掘り下げて、もっとクールな議論が必要だ(ぼくは全ての二元論を克服しようとするので、脳死・移植を「賛成、反対」で議論することそのものを否定する。生と死も二元論でぶった切ることを否定したい。そういう立場)。
ハイデガーの存在論がリアルな「国家」の道具性に応用されているのを読んで(ダニエルのタミル人の議論)、ぼくには「存在と時間」の道具的存在が少し腑に落ちた。ちょうどちょっと前にツイッターで須賀原洋行氏と国民と国家について(ちょっと)議論していたので、さらに腑に落ちた。いや、シンクロニシティーですね。
本書は「みすず」にしてはとても読みやすいです。サラサラ読めます。これは坂川雅子さんの訳の素晴らしさだと思います。多くの思想書は「さらさら」読めるものですが、日本語にするととたんによみにくくなるのです。池澤夏樹の解説もよいです。そういえば、昨日読んでたナボコフの「文学講義」の解説も池澤夏樹だったな。いや、シンクロニシティー。
医療者はぜひ、一度読んでみてください。オススメです。
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