本書は大変面白く読ませていただいた。ただ、どうも日本の漢方診療のトップランナーたちはEBMあるいはエビデンスについて、根本的に誤解しているように思う。
要するに、EBMにおいてWhyとかHowとかはどうでもよいのだ。大事なのは、What, How much, How many, Which といった「ぶっちゃけ」な問題ばかりである。EBMは「なんでそうなるの?」というタイプの疑問には常に沈黙する。その答えるところは、(理由はよく分かんないけど)「どちらの治療がベターか」「何が最適な選択しか」といった、ぶっちゃけな回答ばかりである。
それは、実は漢方診療に親和性が高い。複数の生薬(そして背後にはさらにたくさんの化学物質)が絡む漢方診療において「なぜじゃ」「どうしてじゃ」といった間寛平的疑問に答えるのは困難である。でも、実はEBMもそうであり、EBMが「なぜじゃ」「どうしてじゃ」という疑問に答えることは稀有である。そこはどうでもよい。「結果」だけ示せば、よいのだ。
なのに、本書ではやたらめったら「なぜじゃ」「どうしてじゃ」の疑問に答えようと漢方の専門家が必死に取っ組み合う。そこはどうでもよいのに(ほんと)。そんなに回り道しなくても、漢方は充分にEBMに親和性が高い。要するに、結果さえ出せばよいのだよ、臨床のプロは。
なので、本書はEBM的、エビデンス的にはそうとう「勘違い」している本である。でも、本書が無意味かというとそうではない。それでもよいのだ。漢方におけるデータの「地平」が明白になるから。ICDや中国の動静といった、周辺事情がよく理解できるから。本書は、漢方医学が西洋医学におけるボーダーラインでストラグルする、いわば「戦記」である。それはそれで、実に実に面白い。21世紀の現在、知性の証は知識の総量ではない。それはどんなに頭の良い人間でもコンピューターにはかなわない。大事なのは、既知と無知の境界線を明確にすることだ。それがソクラテスの言うところの、「無知の知」である。それがスマートさ、クレバーさ、そしてウィズダムの証である。本書は、掛け値なしに良書である。そういう意味において。
漢方はやはり実臨床で勝負すべきである。証とか診断は、要するに構造主義的には恣意性に規定された「同じもの」にすぎない。そこを気にする必要はない。要は、「その」証において「その」漢方がどのくらい効くか、どのくらい効かないか、それはプラセボと比べてどうか、そこに尽きる。「なぜじゃ」「どうしてじゃ」は、どうでもよいのである。
殿の思考が楽園とよくわかりました。
ところで、グローバルに漢方、証、弁証、効果判定。
殿の米中日の体験を開陳いただかないと、この記載も言葉のサラダに聞こえまする。
投稿情報: バンブウ | 2013/05/21 23:33