本日、発売です。訳者あとがきをここに載せます。
訳者あとがき
本書をお読みいただいた皆さん、ありがとうございます。まずはここから読み始めた皆さん、こんにちは。
のっけから私事で申し訳ないのですが、ぼくは統合という言葉がとても好きなのです。
もともと医学部に入ったのも、自然科学と社会科学の統合的な勉強をしたかった、というのが最大の理由でした。人命を救い、社会に貢献し、といったヒューマンで高尚な動機はなかったんです。申し訳ないですが。一見対立概念と思われるものもそうでもないんじゃいか、という「信念」みたいなものがぼくにはあります。アメリカと日本の違いばかり皆気にするけど、実は両国は結構似たもの同士なんじゃないか、という「信念」というか直感がもとになって「悪魔の味方 米国医療の現場から」と続編「真っ赤なニシン アメリカ医療からのデタッチメント」は書かれました(いずれも克誠堂出版)。オランダと日本の感染管理、耐性菌対策の同一と差異に注目し、「オランダでは何故MRSAがいないのか? 差異と同一性を巡る旅」(中外医学社)が書かれました。医者・患者関係と言ったって、それは一般的な人間関係の延長線上にしかないんじゃないの、という観点から「患者様が医療を壊す」(新潮選書)が生まれました。「モノ」と「コト」の恣意的な、構造主義的な関係性を基盤に「感染症は実在しない 構造構成的感染症学」(北大路書房)や「構造と診断 ゼロからの診断学」(医学書院)は書かれました。「統合」はぼくのライフワークと呼んでも良いかもしれません。現在、ジェネラリストとスペシャリストの統合を目指したジェネシャリストという概念を構築中で、これはいずれ皆様のお目にかけようと思っています。
さて、あちこちで何度か同じ事を書きましたが、カントは、あらゆる自然研究者は二つのグループに分類できると「純粋理性批判」の中で述べました。同質性の原理により関心をもつグループと、特殊化の方に傾くグループの二つです。折口信夫はこれを「類化性能」と「別化性能」という表現で分類しました。ぼくはより「同質性の原理」に関心を持ち、「類化性能」が強い人間なのだと思います。どれとこれはこう違って、、、というよりは「あれもこれも似たようなもんじゃないか」的な発送が多いのです。
というわけで、Meza, Passerman両氏がナラティブとエビデンス・ベイスド・メディシンを統合するという野心的な試みを書籍にしたとき、「これや!」と体温が数度高まったのは当然なのでした。Rita Charonが紹介文を書き、また彼女が本文中に引用されていたのも、本書への興味を引き寄せた理由の一つでした。彼女の書いた「ナラティブ・メディシン」(斎藤清二ら訳、医学書院)を興味深く読んだからでした。ナラティブ・ベイスド・メディシンとしなかったところがシャロン先生、分かっているなあ、とひとりごちたものです。なんとかベイスド(based)、という言い方には、「こちらの立場」という立場性が内包されています。「あちらは私とは違う他者だよ」と自己と他者を区分けし、自己の優越性を持って他者をこき下ろすようなニュアンスがほのめかされています。それは「統合」とは真逆の観念です。シャロン先生がなんとかベイスドと言わなかったところは、まさに本書の「統合」が前提にあったのではないかとぼくは思うのです。
本書は認識論など、なかなかややこしいところから議論を開始し、ナラティブのなんたるかを示し、そしてエビデンス、とくに求める文献の検索方法と吟味の仕方をケースを用いて追体験する内容です。その後、パートIIIでさらに理論的な説明が理解の助けになるよう付け加えられています。本書を読むと、なるほど、ナラティブなくしてエビデンスなし、エビデンスなくしてナラティブなしなんだなあ、と思います。両者は補完的なのではなく、一連の流れとして医療の実践のプロセスにビルドインされているものなのだ、と実感できます。
著者らが書いているように、本書はあくまでも西洋の(というかたぶんアメリカの)文化的背景に則って作られた診療理念です。したがって、本書をそのままコピー・アンド・ペーストしても我々の診療はうまくいかないだろうことは、読者の皆さんもご理解いただけるでしょう。多分、我々日本社会の医療ではここまでクドクド言語化していくと、むしろ人間関係的には結構キュウキュウになってしまうでしょう。日本では、もっと沈黙が多く、より説明的にならないような対話が望ましいと思います。まあ、本書の「魂の部分」をご理解いただければ、そこは問題ないでしょう。表面的なところだけをすくい取ろうとしてしまうと、まず診療はうまくいかないです。
まあ、それを差し引いても著者らの態度には「なんだかなあ」と訳していてウンザリさせられるようなところも、なくはありませんでした。まず、エビデンスへの(ぼくから見ると)過度な偏重です。エビデンスなくして診療なし、的な態度がそこはかとなく感じられます。「サブグループ解析は見なくてよい」みたいな、「バッサリ」な態度はいかがなものか。確かに、画像や検査ばかり追いかける、彼らが言う所のDOEsはアメリカでも日本でも乱用されがちですし、そういう現状に警鐘を鳴らしたい気持ちは分からないでもありません。でも、エビデンスに代表されるクリーンなデータは、目の前の患者にピッタリフィットしないことが多いのもまた事実です。そういうときは、DOEsも補完的に活用して(それ単体ではうまくいかなくても)合わせ技的に活用することは可能なのです。ナラティブとエビデンスが統合可能なように、(ある種の)DOEsとPOEMsも仲良くやっていく方法はあるんじゃないか、と類化性能の強いぼくは思ってしまいます。ここだけの話、ちょっと真面目さが過ぎるプライマリケア医にはこのタイプが多いですね。「そんなのエビデンスないよ」とバッサリ切ってしまう、evidence based medicine ならぬevidence biased medicineです。情報は、白黒はっきりした二元論的なものではありません。DOEsも「文脈依存的に」「括弧を付けて」活用すればよいのであって、そこまで敵視する必要はないと思います。
同様に、著者らの文章から強くにじみ出る専門家嫌いもぼくには鼻をつきました。そんなにボロクソに言わんでもいいやん、と訳していて何度も思いました。まあ、もしかしたら著者らの周辺にはそういうダメダメな専門家しかいないのかもしれないけれど、それはそれで不幸な話ですね。自画自賛で申し訳ないけれども、上述の「ジェネシャリスト」というコンセプトではこのようにありがちなジェネラリストとスペシャリストの対立概念を解消させ、統合させることを目論んでいます。これだけIntegrationに優れたMezaとPassermanにしてそうなのだから、自らの内部にあるバイアス(エビデンス・ベイスド・メディシンの隠れた最大の敵)というのはいかに御しがたいものなんでしょうね。
まあ、ちょっとクサしはしましたが、全体としては本書はとても画期的な本で、ナラティブに慣れた人にも、エビデンスに馴染んだ人にも、そしてどちらにも疎遠な人にも、是非一度お読みいただきたいと思います。ぼくの見るところ、このような統合したコンセプトは性、人種、文化、世代、地域、イデオロギー、ポリシー、宗教がくっきり色分けされているアメリカよりも、そこはやんわり、、、な日本のほうが馴染み深い、、、少なくともそういう可能性はあると思います。「統合」は医療という世界に馴染みの良い、非常に重要なコンセプトです。そして最終的には、我々き両者と患者も統合的に、同じ場所で、同じ方向を向き、同じアウトカムを目指して共に歩んでいくのですから。
2013年2月 春遠からじ神戸より
岩田健太郎
コメント
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