学生がなんだかオカシナレポートを書いてきたので、何を参照したのと聞くと、ハリソンだという。そんなバカなと思って見ると、なあるほど。誤訳をそのまま引用していたというわけ。ちょっと考えれば日本語としてオカシイと分かるだろうに。
ハリソンには誤訳が多いという噂は昔からついてまわっていた。メディカル‥サイエンス‥インターナショナルは経験的には、翻訳は堅牢で、編集は優秀である。誤訳や訳抜けはきちんとチェックされることが(他の出版社よりは)多い。さて、ハリソンはどうだろう。
ぼ くはこれまで、日本語版を読まないのでその噂の真偽は確認したことがなかった。乗りかかった船なので、というか、今後学生に本書を読ませて良いか確認する ために、図書館で借りてきた。最近出た第4版(原著18版)である。学生が出したのは梅毒だったので169章を読んだ。
以下、問題点の列記。
・1201p右:梅毒に対する高リスク人口は、現在同様1970年代後半より1980年代初頭においても同性愛者の男性の間で優位に広がっているが、時代によりそのピークは変化している。
(原 文)The populations at highest risk for acquiring syphilis have changed over time, with outbreaks among MSM in the late 1970s and early 1980s as well as at present.
(岩田の訳案)梅毒感染のハイリスクな集団は時代とともに変化しているが、その間、男性同性愛者では1970年代後半、1980年代前半、そして現在とアウトブレイクが起きてきた。
・1202p左:先天性梅毒は全世界の死産時のおよそ50%を占め、その数は年間50万から150万例と推定されている。(主語が先天性梅毒なのか死産なのか分かりにくい)
(原文)Worldwide, congenital syphilis has been reported to account for up to 50% of stillbirths, and between 500,000 and 1.5 million cases of congenital syphilis are estimated to occur annually.
(岩田の訳案)世界では先天性梅毒は死産の50%程度の原因であると報告されてきた。先天性梅毒は毎年50万から150万例発生すると考えられている。
・同上:皮膚病変が現れることなく潜伏期梅毒になる患者もいる。
(原文)some patients may enter the latent stage without ever recognizing secondary lesions.
(岩田の訳案)二期梅毒の病変を確認しないまま潜伏梅毒へと進展する者もいる。(その前にincubatingを潜伏期と訳しており、latentは異なる訳語を使わないと誤解のもととなる。潜伏あるいは潜伏性のほうが誤解が生じにくい。以下同様)。
・1202p右:肝炎や免疫複合体による糸球体腎炎glomerulonephritisは第2期梅毒に比較的まれにみられる。
(原文)Clinical hepatitis and immune-complex-induced glomerulonephritis are relatively rare but recognized manifestations of secondary syphilis
(岩田の訳案)臨床的肝炎や免疫複合体による糸球体腎炎は比較的まれだが、二期梅毒でよく知られる徴候である。
・同上:第3期病変の病因と進行の原因は不明である。
(原文)The factors that contribute to the development and progression of tertiary disease are unknown.
(岩田の訳案)三期病変の発生と進行に寄与する因子は不明である。
・1203p左:第2期梅毒にまれな合併症として、
(原文)Less common complications of secondary syphilis include
(岩田の訳案)二期梅毒に比較的まれな合併症として(マレか、比較的マレか、よくあるのか、かならずあるのか、の区別は臨床医学上とても重要なので、その区別と訳出は蔑ろにしてはいけない)
・1204p左:このような初期梅毒の所見が予後に影響するかどうかは定かではないが、無症候性の初期梅毒症例でこのような所見を認める場合には、神経梅毒に準じた治療がなされるべきである。
(原文)Although the prognostic implications of these findings in early syphilis are uncertain, it may be appropriate to conclude that even patients with early syphilis who have such findings do indeed have asymptomatic neurosyphilis and should be treated for neurosyphilis
(岩田の訳案)初期梅毒のこのような所見が予後予測にどのくらい意味があるのかは不明だが、初期梅毒患者であってもこのような所見がある場合、無症候性神経梅毒があるものと決めつけてしまうのも妥当であろうから、神経梅毒治療を行うべきである。(ここは明らかに誤訳。may はかもしれないと訳すと変な日本語になることが多いです)。
・1204p右:梅毒性大動脈瘤はしばしば紡錘状だが通常嚢状であり、解離性大動脈瘤には進展しない。
(原文)Syphilitic aneurysms---usually saccular, occasionally fusiform--do not lead to dissection.
(岩田の訳案)梅毒性大動脈瘤は、通常嚢状だがときに紡錘状であり、解離は起こさない(これも訳文を読み直せばおかしいことにすぐ気がついたはず。訳者というより監訳者の問題である)。
・同上:胎児感染の時期が遅いので
(原文)because of the late onset of fetal pathology
(岩田の訳案)胎児発症の時期が遅いので(ここは死産のほうが流産よりも多い理由を説明しているが、理論的に考えればオカシナ文章であることは分かるはず)。
1205p右:TreponemaのEIAは確定診断として認められ、
(原文)Treponema EIAs have been approved as confirmatory tests
(岩田の訳案)Treponema EIAは確認検査として承認され(文脈上ここでは承認でなければならず、あとにも同様の「承認」という言葉が使われている。したがって「診断」という意訳も適切ではない)
同上:図169-4にそのような症例の管理のための手順を示す。
(原文)Figure 169-4 provides a suggested algorithm for management of such cases.
(岩田の訳案)図169-4にそのような症例マネジメントのアルゴリズム案を示す。(管理もcontrol、management、様々に使われる訳語なのでここではクリアにした。ただ、ここは好みの問題で、もっと重要なのはsuggestedの訳抜け。カチカチのアルゴリズムなのか、より柔軟性をもたせた提案なのかという区別も臨床上はとても重要)。
1206p左:いくつかの研究では、HIV陽性者における神経梅毒診断で用いる髄液中の白血球数のカットオフ値を20/μLにするよう指摘している。
(原文)some studies have suggested using a CSF white-cell cutoff of 20 cells/μL as diagnostic of neurosyphilis
(岩田の訳案)神経梅毒の診断に髄液白血球のカットオフ値を20/μLとすることを示唆する研究もある。(同上)
1207p左:penicillin G benzathineの720万単位の投与が推奨される。
(原文)the recommended treatment is penicillin G benzathine (7.2 million units total)
(岩田の訳案)推奨される治療はpenicilliin G benzathineである(総量720万単位)(totalは訳出したほうが親切。別にも同じ事が一箇所あった)。
同上:良性の第3期梅毒の臨床症状が治療によく反応するのは印象的である
(原文)The clinical response to treatment for benign tertiary syphilis is usually impressive.
(岩田の訳案)良性三期梅毒では、通常治療によく反応する
1207p右:髄液中のpenicillin Gの濃度を測定することはできないため、
(原文)does not produce detectable concentrations of penicillin G in CSF
(岩田の訳案)髄液中ではpenicillin Gの濃度は検出できるほど高まらないため、
1208p左:乳幼児に推奨される治療は、2010年のCDCの治療ガイドラインに含まれている。
(原文)Specific recommendations for the treatment of infants and older children are included in the CDC's 2010 treatment guidelines.
(岩田の訳案)乳幼児に対する治療については、CDCの2010年治療ガイドラインに特に記されている。
どうだろう。このくらいか、と思うか、こんなにあるの、と思うか。多い少ないは主観だから、それは客観的には決定できない。この章が例外的なのか、一般的なのか、それもぼくには分からない。判断するのは、各読者の仕事である。みなさんは、翻訳版ハリソン、「使える」と思います?
学生にはどう言うべきか。ぼくなら、「翻訳版使うのはかまわないよ、でも誤訳の部分を自分で看破できるんならね」と申上げるであろう。さて、できるだろうか、それが学生に。
コメント失礼致します。
先生でさえ、以前日本語と英語では同じ時間内で入ってくる情報量は英語と日本語では随分違うとおっしゃられていたと思いますが、先生なら仮にハリソンを通読するなら英語版と翻訳版どちらを選ばれますか?
時間と誤訳とのトレードオフのような気がします。
また先生ではなく、一般的な若手内科医レベルの英語力としたらどうでしょうか?
投稿情報: 陽平 原田 | 2013/05/13 21:02