まあ、タイトルはあまり気にしないでください。
本日のジャーナルクラブで、偏頭痛があるかどうかを検討したJAMAのRational Clinical Examを読んだ研修医がいた。そのとき、MichelらのPOUNDingクライテリアを使うとLRも24なんで、使えるぜ、というのが件の研修医の解釈であった。
しかし、POUNDing4点以上だとLR24ですよ、というその「4点」は、拍動性頭痛にして持続時間が4−72時間、片側性で、嘔気嘔吐を伴い、動けなくなってしまうのうち4つか5つを満たすとLR24ですよ、という意味である。言い換えるならば「だれがどうみても偏頭痛みたいな患者であれば、偏頭痛の可能性は高いですよ」という意味である。偏頭痛みたいな患者は偏頭痛の患者らしいですよ、というほとんどトートロジーに近い。ウィトゲンシュタインは言及がトートロジーになるかならないかを一所懸命議論したが、ここでもその問題が出ているように思う。
実際、POUNDing 2点以下ではLRは0.45とパットしない。非典型的な偏頭痛は、やはり難しいのである。
そもそも、偏頭痛は現象をコトバ化して診断基準としたコンセンサスによる診断を行う病気である。画像診断(除外以外には)もバイオマーカーも存在しない。要するに、多くの日本の医者が苦手とするタイプの病気である。
そのような現象をコトバの積み上げで表現するのが構成主義的な診断学とここで考えよう(言葉の定義に拘泥したくないので、「ここでは」と限定させてください)。
しかし、部分の積み上げは全体像を形作るであろうか。こてこてなものなら良いが、非典型像はこぼれ落ちてしまう。JAMAの分析は、「偏頭痛ってやはり難しいねえ、あいまいだねえ」という事実を明確に記述しているのである。もちろん、それは学的に意味がある。なんだかよくわからないのと、「なんだかよくわからないのが」よくわかっているのには天地の差があるからだ。
いずれにせよ、構成主義的なコトバの記述で全体を表現するのには無理があり、限界がある。それを強く感じたのは2001、2003年のセプシスの定義である。たくさんの学会が集まって作った精緻なsepsis criteriaは精緻なだけに「なんだかよくわからない」ものになってしまっている。欧米、特にアメリカではコトバに置き換える作業、コンセンサスづくりが大好きで、そういう圧力が強いからそうなるのであるが、実はここには無理がある。
部分の積み上げにより全体像を見るのではなく、全体を全体としてみましょう、というのがゲシュタルト診断学の考え方(by 岩田)である。でも、これは日常皆が行なっていることで、何も目新しいことでも珍奇なことでもない。
AKB48の一番偉い人は大島優子というのだそうだ。ファンは、彼女を見れば即座に彼女と見分けるであろう。街で歩いていても、もしかしたら多少の変装を施していても彼女と分かるであろう。
しかし、僕の目の前に大島優子がいたとしても、ぼくにはそれと分かるまい。全然別の女の子が歩いていて、「あれが大島優子だよ」と言われても、「ああ、そうなの」と思うであろう。ええと、ここまでで僕のAKBの知識のほどは分かったであろうから、ファンの人は怒らないでくださいね。ちなみに、僕は若いころ小泉今日子と中山美穂の区別がつかなくて両方のファンに怒られたことがある。たぶん、今でも区別はつかない。
さて、大島優子が大島優子と同定される根拠はどこにあるか。それはおそらく、コトバにはない。鼻の高さ、眼の形、首の幅、、、こうした要素をコトバにして積み上げていっても、大島優子にはならないし、その近似値にすらならない可能性は高い。また、見たことがない人にとって、そのような要素の積み上げは当の本人を想起させない。
見れば、分かる。ぼくらにとってのsepsisがそうである。それを、要素の積み上げで現象を説明しようとすると、コトバの積み上げで大島優子を表現するような無理が生じる。あるいは「絵にも書けない美しさ(かどうかは知らんけど)」のような特定の個人にしか通用しない、非科学的な言及になる。科学のコトバとは多くの人に共有され、最生産可能なコトバでなくてはならないのだから。
したがって、sepsisを感得するにはコトバではなく、現象を現象のままで見るという姿勢が大事になる。臨床試験をする時とは、異なるコトバの使い方をするのが診療においては大事だ、ということだ。
しかし、とある研修医が反論する。コトバによる表現を否定すれば、それは昔ながらの師匠から弟子への伝承という形をとる。それでもいいのか、と。
それでもいいのだ、と僕は思う。むしろ、そのような師匠から弟子への伝承が、コトバでは捉え切れない、こぼれ落ちる大事なエッセンスを伝えるのに必要なのだ。そういうことの過度な軽視、B29のパイロットを養成するような政治的で経済的な研修医・学生教育は、見直される必要があると僕は思う。それは「効率」を基盤にしない、教育だ。効率を無視しろ、と言っているのではない。基盤にするな、と言っているのだ。
精神科の教科書を読むとどの病気も自分に当てはまり、うつ病かな、人格障害かな、と思ってしまうのは、このゲシュタルトが抜け落ちたコトバを見ているからなのだと思う。実際にうつ病患者や人格障害患者を見ていると、峻別は容易だ(たいていは)。コトバに移せないゲシュタルトがそこではこぼれ落ちずに診察室に現存している。
ソクラテスが本を書かなかったことと、このことは実は深く関係している、、、そういうふうに僕は思う。コトバに置き換えたとたん、わからないものが分かったかのような錯覚に陥るのだ。
しかし、さらに、、と僕は思う。そのコトバ化できないゲシュタルトを、それでもコトバに近似するなんらかの方法があるのではないかと。それが、いまとっくんでいる本の企画です。さて、どうなるか。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。