ある雑誌で「ボツ」になった原稿です。供養のためこちらに載せます。まあ、どっかで何度か話題にした話ですが。
コトバについて考える 2000字くらい
あるところで、「呼吸苦」という言葉が問題になりました。呼吸苦とは、呼吸で苦しんでいる状態のことを言います。患者さんが「息が苦しい」と思えば、それが呼吸苦なのです。
ところが、「呼吸苦は正しい言葉ではない」と批判する医師もいます。正式には「呼吸困難」としなければならない、なぜならば、学術用語集にそう書いてあるからだ、というのがその根拠なのだそうです。
ま、言わんとするところは分からないではありません。でも、僕の個人的な意見としては、こういうのってどうでもよいと思います。なぜって、「呼吸苦」にしても「呼吸困難」にしても意味はしっかり通じるからです。そして、コトバとは意味がきちんと通じることこそが、その目的だからです。
もちろん、ウィトゲンシュタインのような厳密な哲学者は「意味がきちんと通じるとはどういうことだ」と懐疑的におっしゃるかもしれません。それは、決して衒学的哲学者の揚げ足取りではなく、本質的に重要な疑問です。僕自身、コトバが「通じる」とはどういうことか、という命題にはいつも高い関心を持っています。医者の考えが患者に伝わらない、患者の思いが医者に伝わらない、、、多くはコトバの伝わり方の問題だと思っているからです。でも、ここではこの話題はちょっと触れないでおきましょう。話がややこしくなり過ぎますから。
ウィトゲンシュタイン的な厳密性はないかもしれませんが、「呼吸苦」と「呼吸困難」はどちらもほぼ同じ確かさで、僕達医療者の間では通用する用語です。診療現場で自然に、そして頻繁につかわれています。「呼吸困難」を「呼吸苦」と呼んだからといって意味が通じなかったり、医療事故が起きたなんて話は聞いたことがありません。両者は人口に膾炙しており、コミュニケーションのツールとして十全に機能している。同じように、抗生物質や抗生剤ではなく、抗菌薬が正しい用語だと主張されることがありますが、まあどっちだってよいと僕は思います。
なるほど、確かに「呼吸苦」は学術用語集には載っていないかもしれません。しかし、我々がコトバを使うのは、「辞書に載っているから」ではありません。我々がコトバを使い、それが人口に膾炙するとき、そのコトバが辞書に採用され、載せられるのです。順番が逆なのです。言葉の使い手、主体は人にあります。辞書は人が活用するツールに過ぎません。人は辞書の召使ではないのです。
呼吸苦は診療現場で十分に普及し、その意味もうまく伝わっているコトバです。みんなが使っているコトバこそが、正しい言葉なのです。
山茶花は、かつて「さんざか」と呼ばれていました。漢字を普通に見れば、そう読むのが自然ですよね。しかし、誰かが間違えだしたのでしょう。これを「さざんか」と呼んじゃった。しかし、それが普及してしまうともう「さんざか」なんて言っても通用しなくなります。落語の「ネタ」はもともと「タネ」から来ており、これをひっくり返してできました。でも、いま「落語のタネ」と言っても誰にも通じません。
これらのエピソードは「語源がどうだから、コトバはこうあるべき」という「べき論」の虚しさを伝えています。繰り返しますが、みんなが使っているコトバだけが正しい言葉なのです。たった一人だけ意固地に「さんざか」「たね」と言っていても通じません。誰にも通じない「音声」はすでにコトバではありません。
ところで、語源に差別の意味があるから、使っちゃいかんと糾弾されるのが「差別語」です。
僕は昔から「差別語」という概念が大嫌いです。差別的感情が差別的表現を行わせます。その表現が「差別語」です。しかし、最近はカタログ(辞書みたいなもの)に載っている「差別語リスト」に載っていると差別語になってしまうのです。コトバが先にあって、意味はあとから来るなんて順番が逆です。ぼくはNHKで伝統芸能を鑑賞するのが趣味ですが(他の放送局ではやってくれないんだもの)、落語家が厳密に「差別語」を回避しているのを見ると嫌になります。NHKさん、もうちょっと考えてよ。ある日の早朝、三遊亭圓歌が「吃音」と落語で言っていました。おそらく原典は「どもり」だったのでしょう。そこを無理やり変えるとかえって不自然です。昔のヌード写真で股間を塗りつぶすようなもので、かえって淫靡です。差別感情がそこから沸き上がってくるような気すらします。落語の登場人物であれば、そこはさらりと「どもり」「めくら」「びっこ」で通すべきなのです。賭けてもよいですが、落語の登場人物がそう言ったからといって差別感情が惹起されるなんてことは絶対にありません。もともと差別感を持っていたのでない限りは。同じように、新聞で「障がい」と変な漢字かな交じりの表現を使うのも嫌いです。そうすれば差別がなくなるような「ごまかし」をそこに感じるからです。
茨木のり子は「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」と表現しました。自分の言葉に責任を持つということは、リストに載っている差別語を回避することではありません。それは他人が作ったルールにコトバを管理してもらうことに他ならず、主体性と感受性の放棄にほかなりません。そして、主体性と感受性の放棄こそが、差別とかイジメの遠因なのです。いじめっ子も教師も「いじめなんてない」とその存在を否定します。主体性と感受性を放棄し、形式的なルールブックに合わせれていればそれでよしといういい加減な態度がそうさせるのです。
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