本書は極めてユニークだ。洛和会音羽病院総合診療科に長く在籍した若手指導医が、そのフィールドを見つめつづけ、そこから生まれた本である。病院総合診療の現場の躍動感が伝わってくる。日本の病院で総合診療医が働くということはこういうことか、という力のこもり方が章立てから分かる。
1.内科的診断能力を鍛える
2.高齢者を診療する能力を鍛える
3.研修医を教育する能力を鍛える
4.患者の安全を担保する能力を鍛える
5.科学的根拠を「正しく」利用する能力を鍛える
この「鍛える」はおそらくは自らを鍛え上げるという意味と、後進を(あるいは読者を)鍛えるという意味のダブルミーニングであろう。そして、5章においては「正しく」が括弧にくくられているところが、あいまいな現場のドクターらしさを醸し出している。括弧なしで正しいとか間違っている、ということを現場の人間は嫌うからだ。このような章立ては既存の書物にはないものだが、一般病院の病院総合診療、という観点からは実に納得の行く構成である。病院医というと日本ではあの手技ができる、この検査が出来るという技術屋的な側面が強調されがちだが、そういうセグメントがない点もフィロソフィーを感じさせる。
第一章の「診断」の章は特に圧巻だ。とても興味深い章だった。なぜだろうか。ぼくが思うに、この章には筆者の「息吹」が感じられるからだと思う。診断学の教科書は「面白くない」ことが多い。学的に過ぎて、観念的で、現場から乖離した感じがするからだ(実際、本当に現場から解離していることも少なくない)。しかし、本書のこの章は、おそらくは筆者が「もっとうまく診断できるようになりたい」と念じ、努力し、多くの文献を読みあさった結果として結実した章なのではないかと想像する。だから、文章に爪の食い込み、地に足のついた現実味を感じる。「SpPinとSnNoutは臨床現場で広く親しまれているが、感度だけよい検査、特異度だけよい検査ではRule out, Rule inできない」(76ページ)などはとても興味深いコメントであった。換言すれば、感度・特異度は検査を評価し、患者の評価はlikelihood ratioがなす、と言い換えられるかもしれない。まだまだ日本では診断軽視、とりあえず検査、とりあえず治療の風潮が強い。診断する、という営為に対する筆者の意気込みを模範としたい。
日本の総合診療が高齢者医療とほぼ同義、、とまでは言わないまでもかなり近接していることも、本書の構成をユニークにしている。高齢者に特化した知識やアプローチが必要なのだ。ポリファーマシーに言及している本も日本には少ない(そのくせ、いやそれゆえ、、、日本では本当に本当にポリファーマシーが多い!)。3章の研修医教育の章もよくまとまっている。「学習者という立場を活かした指導」のサブセクションはとくに秀逸だった。4章の医療安全においては自施設のデータや自身の感覚との対比があり、とくに若手医師が看過しやすいトピックなだけにこれも素晴らしかったと思う。多くの医療安全上の問題が「そうはいってもいろいろあって難しいんだよね」と看過されている(その典型が、当直後も勤務を継続することが習慣的に許容されているという現実である)。5章のEBMとNBMにおいては基本的なEBMの解説にとどまらず、Sackettの説くEBMの理念(経験、価値観、エビデンスの統合)と現実(エビデンスレベルのヒエラルキー)という本質的な矛盾を指摘しており、興味深い。そしてEBMとNBMの統合という理念が提起されるが、残念ながらその具体策については若干観念論に終始してしまった感がある。この統合は大きな課題なので、将来の結実を期待したい。
多くの若手医師は、現場でのエクスポージャーと経験の渦にまみれ、そこで止まってしまう。野心的な若手医師はその上で盛んに文献や教科書を乱読し、学的知識を豊富にしようと努力する。が、しかし文献に「溺れてしまう」。さらにさらに優れた医師は、その学的知識を咀嚼し、我が血肉に落とし込もうとする。本書はその落とし込んだ血肉たる言葉であり、したがって現場の優れた臨床医の頭の中がそのまま開かれて本になったような印象がある。徹底的に現場的な視線。しかし、「現場的」という言葉に甘えず、文献的知識にも溺れず、両者が病院総合診療というフィールドの上でうまく融合されている。
本書を読むのが研修医ならば、「おれもこんなふうに学びたい」と願うだろう。それが指導医たちならば、「おれもこんなふうに勉強するんだった」とため息をつくであろう。ぼくはため息をついた。
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