愛の反対は無関心だとマザー・テレサは言った。
しかし、我々は世界の苦痛に高い関心を保ちつづけることは非情に困難である。アフリカ大陸でも、アジアでも、中米・南米でも、その他の地域でも多くの人々が苦しんでいる。ぼくら医療者にできることはたくさんあるが、ぼくらの関心はそんな遠くまで届かない。あるいは届きにくい。近くにいる者に意識というエネルギーのほとんどを吸い取られてしまうからだ。よく、Think globally, act locallyと言うが、実際にはThink globally のほうはちょくちょくおざなりになる。目の前のことに汲々としてしまう。
他者に起きている災厄全てに高い意識を平等に保つことは困難である。それは、ぼくらの意識が距離に、、、それは時間的、空間的、そして感情的な距離なのだが、、、依存して弱まってしまうからだ。ぼくらは、患者の死を家族の死と同様に受け止めることができない。海外の病気を国内の病気と等価に認識することができない。また、そうしていては毎日の医療なんてやっていけない。これは、善悪の問題というよりも、ぼくらが正気を保つための一種のストッパーのようなものである。世界の苦悩を等しく平等に受け止めることなんて、神か狂人でなければ不可能だ。そうぼくは「ためらいのリアル医療倫理」で書いた。
いや、もう一人いた。ポール・ファーマーである。
「権力の病理」はファーマーの怒りの告発書である。彼はぼくらの意識が「遠くにある」貧者に対して弱すぎると怒る。健康と医療は万人にとっての権利、人権であるが、多くの人はそれを奪い取られている。その遠因は貧困にある。貧困は構造的権力、権力という暴力装置がもたらしたものである。この暴力は真自由主義がドライブしている。アメリカのような強欲な先進国がそれをドライブしている。ポストモダンな価値相対主義が看過している。多くのコンベンショナルな人類学者も、倫理学者も、医療者も、人権団体も、看過している。看過してはならない。現実を深く観察し、分析し、対策をとらねばならない。貧困を、病気を許容してはならない。全ての人を貧困と病から開放するべきである。ファーマーの鋭い舌鋒がぼくらののど元にするどく襲いかかる。
カール・マルクスは産業革命後のイギリス労働者の悲惨を観察し、分析し、そして「資本論」を書いた。多くの人はそれを読んで魂を揺さぶられた(その末路は必ずしも健全ではなかったが)。ぼくが今感じているような感じ方を、当時「資本論」を読んで魂に火がついた人たちは感じたのであろうと、ぼくは考えている。医療、公衆衛生、倫理にかかわる人たちには、是非読んでほしい一冊である。
P・ファーマーはハーヴァード大学の文化人類学と感染症学の教授であり、感染症科の臨床医である。社会科学的分析、考察も、自然科学的分析、考察も平行して矛盾なく行う。とても高い質で行う。研究者であり、ファンドレイザーであり、組織のオーガナイザーである。彼は、多剤耐性結核が貧しい国で蔓延することを許容せず、その治療プランを立てて臨床試験を行い、治療法を確立させてNEJMのような一流誌に発表する。貧困と格差社会を憎悪するが、ちゃっかりと資産家を説得して高額の活動資金を寄付してもらう。徹底した正義感。圧倒的な頭脳。高邁な理想と地に足のついたプラグマティズムが同居する。ぼくにとっては手を伸ばしても、飛んでもはねてもあがいても届かないはるか遠くの存在で、「ロールモデル」とはとても呼べない。ただただ、すごいなあ、と仰ぎ見るだけである。
ファーマーは現状の学的「正しい説明」に懐疑的で、学術的な常識を信用しない。今の説明ではなく、未来のあるべき姿を見据えている。せめて、その目線だけは、模倣したいと思っている。
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