以下は、「新型うつ」バッシングを意図したものではない。そういう文脈でお読みにならないことを希望する。
「新型うつ」という現象が社会的に問題になっている。このことについては以前から考えていた。昨夜、NHKスペシャルを見ながらだいぶ考えがまとまってきたので以下に私見を述べる。
「新型うつ」は、その名前がイメージさせるのとは異なり、「うつ病」とは真逆な現象だとぼくは思っている。ぼくらが外来で(ときに病棟で)みる「うつ病」患者は、あれやこれやを「自分の責任」に背負い込んで苦しんでいる人であることが多い。そして、ぼくらの仕事は「これはあなたのせいじゃないんですよ。うつ病はあなたの「なまけ」でもなんでもなく、一つの「病気」です。だからこれはあなたのせいだという背負い込みをなくし、一つの病気として治療していきましょう」と患者に伝え、そして病気として粛々と治療をしていくことにある。医療者の役割はここでは極めてクリアである。
ぼくが思うに、「新型うつ」と呼ばれる現象は逆である。ここではあれやこれやは「俺ではない誰かの責任」へと転化される。全ての現象は他者がなす理不尽な仕打ちと(本人には)感じられ、その理不尽さに苦しんだ者が、その理不尽さに苦痛し、耐えきれずに回避行動にでる。「うつ病」が自らの有責性に苦しむ病気(という解釈も出来る)がゆえに、その有責性はどこにいても、いつでも回避できない。己のあり方そのものから自由になることは不可能か、あるいは極めて困難だからである。ところが、「新型うつ」の場合は問題は常に「俺にとって理不尽な他者」であり、その「理不尽な他者」のいないところでは「俺」は十全に健全(かつ正常な)人間である。したがって、苦痛の源泉がない自宅や飲み屋やテーマパークで彼らが元気なのは「当たり前」なのである。
このように、「うつ病」と「新型うつ」は真逆の現象であるようにぼくには思える。前者は「自己との葛藤」であり、後者は(特定の)「他者との葛藤」である。シンプリスティックに過ぎるかもしれないが、こう分類するのはそれほど無理な話ではないと思う。真逆の現象である両者に同じ「うつ」という名前が冠されることを、ぼくは不思議に感じている。まして、「新型うつ」に「うつ病」という名の診断書が与えられることについては、強い当惑を感じる。
ここで、結論を述べる。「新型うつ」を病気と認識しないほうがよいのではないか。それは、「病気」とは別の現象として認識されるべきではないか。このようにぼくは思うのである。
ここで、誤解のないように申し上げておくが、ぼくは「新型うつ」という現象はどうでもよいとかほおっておけばよい、と申し上げたいのではない。「新型うつ」の状態にある人をないがしろにしろ、と言いたいのでもない。ただ、その現象を「病気」というカテゴリーに組み込まれることは、現状にとって、社会にとって、そして「新型うつ」の当人そのものにとっても益が小さいのではないか、と申し上げたいのである。
ある現象が病気であるか、そうでないかは「恣意性」だけが決定することである。これはぼくが「感染症は実在しない」で述べたことである。苦痛を基準に病気を定義するのであれば、無症状の高血圧が病気であるのはおかしいし、失恋が病気でないのもおかしい。将来のバッドアウトカムのリスクを基準にするのであれば、明らかながんのリスクである「加齢」が病気でないのは齟齬が生じる。メタボリック症候群が病気かそうでないか、もめているのは当たり前の話で、それが「恣意性」が規定することだからである。結核感染者(が、非発病者)は昔は「予防」の対象であり、患者ではなかった。それが、結核撲滅という「恣意性」のために「潜伏結核」という病名が冠されたのである。すべては恣意性のなせる業だ。
「新型うつ」という現象は、対人関係において幼稚であり、理不尽に対する耐性が極めて低く、小学生のようなロジックで自らに否定的な他者を否定し、そういう他者を容認できない現象である。これを病気と呼ぶことは不可能ではない。しかし、同じようなロジックでパワハラやセクハラ常習も病気と認定できなくもない。「空気が読めない」というだけでも病気と認定できなくもない。そうしないのは、「そうしてもしようがない」からである。繰り返すが、「新型うつ」を病気と呼ぶか、呼ばないかは我々の恣意性いかんである。
さて、我々が「新型うつ」を病気と認定してどういう利益があるだろう。ほとんど、ない。病欠した社員は友達と遊びに行き、その対策のためにたくさんの人的金銭的リソースを投入しなければならない。「新型うつ」の当人はどうか。「新型うつ」は、責任は他人にあると責任転嫁しやすい性向をもつ。そこに、「あなたに起きているのは「新型うつ」という病気ですよ、あなたが悪いんじゃないんですよ」という、いたく便利なエクスキューすを与えたらどうなるか。「そうですよね。俺が悪いんじゃない。これは病気なんだ」とさらなる他者への責任転嫁が進行するだけではないのだろうか。
「新型うつ」という他者への責任転嫁現象が是正されるには、その責任を「己のものである」と認識する、自らへの有責性への自覚なしにはありえない。そう、ぼくは思う。「新型うつ」という病名付け、レッテルはりはそれに対する真逆な(それは「うつ病」に対するオーセンティックなアプローチなだけに、実に真逆な)対応ではないだろうか。
「新型うつ」の責任が当人だけにあり、周りは関係ない、と申し上げたいのではない。「新型うつ」は社会と歴史が生み出した現象である。もともと、日本社会には長く「主体性」を必要としなかった。上意下達で上の命令に粛々と従い、上の期待に応える人間こそ優秀だったのである。そのオリジンは、儒教の入ってきた武家社会にまでおよび、明治維新後も続き、軍国国家時代も続き、「民主化」された戦後にも続いた。丸山真男は民主主義という概念を葛藤なくあっさり受け入れてしまった日本人を嘆き、そこに主体性のなさを見出した。小林秀雄も、知的社会の主体性の欠如に憤慨し、孤立して戦いを挑んだ。マルクス主義者たちが訴えたのはオリジナルな思想ではなく、誰かの借り物でしかなかった。だから、マルクスの意図は「マルクス主義者」にはついぞ伝わらなかった。こうして個別のアウトライヤーたちは主体性をもって日本社会の主体性のなさを糾弾したのだが、彼らが著名なのは、彼らがいかにもアウトライヤーだったからにほかならない。親方日の丸、右肩上がりの昭和の価値観において、主体性のなさはむしろ利得だったのである。なるほど、若いときは親との葛藤があり、尾崎豊的な権威への葛藤があったが、その葛藤すら型にハマった定型的な葛藤であった。ぼくが中学生の時は「校内暴力」全盛期であったが、みなが長いガクラン、裏地はキラキラの刺繍、たばこ、バイクであった。そこで一人図書館でカフカとか読んでいるのが本当の「主体性」というべきであるが、判で押したように同じような反抗の形にハマらなければならなかったのである。そして、こうした不良たちも自然と社会の型に取り込まれていった。主体性は皆無だったのである。
ところが、ベルリンの壁が崩れ、アメリカ中心の市場原理主義が衰え、311が起きて世界中が困っている状態になって何が正しい基準なのかは誰にも判然としなくなった。大人が信用できないのは分かっている(それは、「反抗の対象」だった時代とは異なり本当の意味で「信用できない」のである)。では、どうすればよいのか、誰にも分からない。自分のことは自分で決め、主体性を持って生きなければならない。しかし、日本人はそういう生き方を教わってこなかった。主体的な生き方は「うっとうしい」生き方だったからだ。
「新型うつ」の人たちは良好なコミュニケーションと自分への理解を周囲に求める。しかしそんなものは日本にはない。日本は依然、旧態然とした上意下達の日本社会であり、そこには主体性はなく、一種の「思考停止」であることを由とする。上司には(彼らが規定する枠外にある)コミュニケーション能力はなく、むしろ最悪のコミュニケーターである(ことが多い)。彼らの多くは一緒に飲んで、「俺の若い頃」の武勇伝を言って聞かせ(聞いているほうは感心して聞いているふりをして)、そういう空気を共有できる相手「とだけ」会話が成立する。「他者との対話」をコミュニケーションと呼ぶのであれば、かれらにはコミュニケーションなど一切できないのである。
以上の状況をかんがみ、それでもぼくは「新型うつ」の人たちが「社会が悪いんだ、おれたちは悪くない」と叫ぶことを由としない。それは彼らを回復させないからだ。それだけの極めてプラグマティックな理由だ。彼らは、有責性は自分にある、という自覚からスタートさせないといけない。そこを渡らないと、どこにも行けない。だから、ぼくはそれを「病気」と呼ぶのを止めましょう、と言っているのだ。
当人だけの問題だ。それ以外になにもしなくてもよい、他の人間は関係ない、と無責任なことを言っているわけではない。日本社会には主体性が必要である。価値の異なる「他者」ともちゃんと対話が出来る、真のコミュニケーションも必要である。自分の価値観が価値観の全て、というエゴを捨てる度胸と覚悟も必要である。その社会構造を変えていき、真に主体性ある社会を築いていくのはぼくたちの大事な責務である。
「新型うつ」は病気と規定すべきではない、とぼくは思う。それは社会病理というか、医療の枠の外で扱うべき事象である。しかし、医療者がノータッチ、無関心でよいとも思わない。ぼくは、以前から医療者は「病人」以外とも対峙すべきだと申し上げている。「新型うつ」に医療者もコミットすべきだ。ただし、「病人」としてではなく、そうではない、なにかとして、である。
とても納得の行く内容ですが医療で解決できるのなら解決したらいいとも思うのですが。アプローチは多いに越したことは無い。
投稿情報: Grainmasher | 2012/06/16 14:18
守屋@流しの家庭医です.
岩田先生ご無沙汰しております.ブログ記事ちょくちょく拝見しております.
本記事に関しては,根本的な疑義を呈したいと思います.
それは,
「そもそも“新型うつ”なるentityは学術的には未だ存在せず,既存の複数の精神疾患の似たような一側面を都合良く切り取ってきてごちゃ混ぜにしてあたかも新種の独立した社会現象のように言っているだけではないのか?
もしも患者を“新型うつ”と診断してしまう精神科医がいたとしたら,その精神科医は正統で緻密な精神科診断を放棄してしまっているのではないか?
そうした,およそ学術的に練られているとは言い難い,catchyでメディア受けするだけの“新型うつ”なる造語をあたかも単一の疾病現象であるかのごとく捉えてそれを病気だと見なすとか見なさないとか言う議論自体が,根本的に成立し得ないのではないか?」
ということです.
(先生のように書き慣れていないので文章が回りくどくて分かりづらくて恐縮です)
私がネットをザッと検索した限りでは,“新型うつ”なる造語は某有名精神科医が某著書で言い出したのが発端のように見受けられました.逆に言えば,複数の精神科医が学術的な積み上げをして提案・議論しているとか,学会レベル等で定義の試みが為されているとか,そういうものを見つけることが出来ませんでした.
※もしあるようでしたら是非お教えください.
私が勉強する限りでは,2型双極性障害・特にrapid cycler,いくつかの人格障害,アスペルガーのような自閉症スペクトラムに抑うつ状態を合併した一表現形,ある種の神経症圏の現代的な表現形,などがそれぞれ“新型うつ”と曖昧にカテゴライズされるものの諸相を為しているように見受けられます.
私自身がそうした臨床を日常行っているわけではないのであくまで教科書レベルの理解に留まっていますが….
話を整理すると,
■“新型うつ”の学術的定義も確かでない現状で,あたかもそれが単一のentityであるかのごとく扱って,それを「病気と認識すべきでない」と主張するのは,根本的に無理があるのではないか?
■日常臨床としては,“新型うつ”と安易にラベリングする前に,既存・既知の精神疾患のいずれかを緻密に鑑別する臨床的努力がまず必須なのではないか?
という疑義を呈するものであります.
いかがでしょうか?
投稿情報: Akinari Moriya | 2012/05/08 00:26
紋切型の反抗期には主体性が無いってのは、ちょっと面白いなって思う。
投稿情報: ビルとベン@逝毛メン | 2012/05/01 10:58