たまたま学会で朝ゆっくりだったので、NHKの朝ドラを見ていた。そこで主人公のお父さん(かな?)が、「医者は聖職ではない」と言っていた。
同意、である。
先日、ある職業を指してあるドクターが「あれは立派な仕事ではない」と言っていた。それは自己の職業が「立派な仕事」であるという自覚がなせる発言であった。非常に恥ずかしい発言であると、ぼくは自分がそういう発言をした当人であるかのような、きまりの悪さを覚えた。
もちろん、医者は聖職ではない。職業の一つに過ぎない。たしかに、「医者は聖職である」というスローガンがこれまで我々の意気を高揚してきた部分はある。その高揚がリソースプアな日本の医療を支えてきたという現実もあり、またその矜恃も理解できなくもない。
それでも、医者は聖職ではない。ドラマで登場人物が述べていたように、医者は人間であり、患者は人間であり、人間が人間に対峙するという仕事に過ぎない。そして、人間はやっかいな生き物であり、医者もまた人間であるがゆえに厄介な生き物であり、故に医療は(きわめて)厄介な営為なのである。
医者が「聖職」という美名をエネルギーに無理をしてがんばってきた反面、その美名をエクスキュースにして多くのことを「ちゃら」にしてきた。他の医療者やMRさん(医薬情報担当者)たちへのぞんざいな態度、家族への理不尽、こういうのも「俺のやっていることは聖なる仕事だから」ということであっさりちゃらにできたのである。そのことの負の側面も、しっかり考えてみなければならない。
医療は、医者だけでなりたつものではない。現代では、なおさらそうである。感染症学会のとき、ぼくはMR主導の医療情報を医者は入手すべきではないと述べた。憤慨した(であろう)あるMRがそのぼくの発言を受けて言いがかり的な「からみ」を見せた。
彼は、ぼくの本意を十分に理解しなかったようである。製薬メーカーは医療界の一員であり、彼らを抜きに医療を語ることはできない。新薬の開発、安全性の確保、医療者と製薬メーカーが協力しあうべきか。もちろん、答えはイエス、である。しかしその正論を拡大解釈し、高価なお弁当を供して自社の製品ピーアールをしたり、「なんとかマイシン新発売記念講演会」を旅費もちで招待するとき、そこに不健全さが生じるのは「あたりまえだ」と申し上げているのである(そうでないのならば、そうではないやりかたで会を開けばよいのだ)。そのようなアンプロフェッショナルな関係性をもってはならないと申し上げているのである。製薬メーカーが営利企業であり、その利潤を追求するのは当然だ。だから、ぼくはそれを否定しないし、非難もしない。問題は、それに乗っかる医者のほうである。医者は聖職ではない。しかし、ぼくが言っているのは、「そういうこと」ではない。
医者の悪癖として、「自分の話」「自分の科の話」しかしない、というのがある。
どのスペシャリティーも、「私の特殊性、私の優位性」を訴える。それは暗に「他の専門科はたいしたことないよ」という軽蔑をほのめかしている(昔は、そうあからさまに言う医者も多かったけど、最近はさすがに少なくなった)。ぼくは、「他者の目」を基準に自己を規定することからそろそろ卒業しましょう、と以前から申し上げている。むしろ、他者の言葉を自己との比較とは別な形で聞きたいと思う。感染症屋はそれにフィットした仕事である。他者の優位性をむしろ自覚し、自己を卑下し、自らを「立派な仕事」とは考えない。病院の廃物処理、トラブルシューターくらいに規定しておきたい。そこに真のプライドが萌芽するとぼくは思っているのである。繰り返すが、医者が自分の仕事を「立派な仕事」だと言ったり考えたりするのは、とてもみっともない所業だと思う。
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