今日、感染症学会でしゃべったのはだいたいこんな内容です。
2005年に、ぼくは世界各地の感染症専門医教育プログラムについてまとめたことがあります。アメリカでは、ドイツでは、イギリスでは、と各国の教育プログラムを網羅的にまとめたものです。
http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n2005dir/n2656dir/n2656_02.htm
ただ、ちょっと片手落ちだったなあ、と反省もしています。というのは、ぼくがやったのは「世界ではこうなっています」という現状分析だったからです。それは現状の説明にはなっていますが、「これからおれたちはこうすればよい」という未来への打開策を導き出すものではありません。いや、むしろ現状に詳しくなりすぎると未来へのブレイクスルーを阻害する要因にすらなりかねません。病棟の感染対策を見直そうとすると、古株の看護師さんに「うちでは昔からこうなってるんです」と抵抗されることがありますね。現状というものにどっぷりとつかってしまうと「そうではない可能性」に視線を向けることができなくなってしまうのです。こうなってるから、こうなってるんだ、というトートロジーに気付かなくなってしまうんですね。「うちの事情」に詳しくなりすぎて問題打開ができなくなるという誤謬は、大学とか、官僚組織にもよく見られるコモンな誤謬です。
だから、ぼくは2005年に「○○国ではこうなっています」みたいな現状の説明ばかりに一所懸命にならず、むしろそのような固定観念から脱して(そうしなければブレイクスルーは起きませんから)、「未来はどうあるべきか」を一所懸命考えるべきだったんですね。
感染症の領域は、医学の他の領域同様どんどんエクスパンドしています。新しい菌が見つかり、菌名が変わり、病名が加わり、新薬が加わり、新しい病態が加わります。ぼくの元ボスは70年代に感染症医になりましたが、そのころは今から見ると比較的素朴な細菌学、抗菌薬学でした。しかし、現在ではここにHIVが加わり、感染制御学が加わり、EBMが加わり、予防接種が加わり、旅行医学・熱帯医学が加わり、多種多様な抗ウイルス薬が加わり、移植医療・がん治療の変化が加わり、集中治療的な患者病態把握学が加わり、感染症学はどんどん広く、そして深くなっていっています。多くの若手医師は自分はどこでどこまでどのように勉強すればよいのか、と悩んでいますが、この悩みは深まる一方で、今後小さくなることはないでしょう。
初期研修でも後期研修でも、ぼくらは「経験目標」をチェックし、あれを経験したか、これを経験したか、でその医者の研修習熟度を吟味します。しかし、爆発的に広く、そして深くなる感染症学においてこの方法論は破綻していくものと思います。今ですら、初期研修医は「経験目標」を満たすことに汲々として、「おれまだ統合失調症見てない!」と大慌てで病院中を探し歩いたりします。統合失調症を経験するのは、プライマリケア習得のための「手段」なのですが、ここで日本人が陥りがちな誤謬、手段の目的化が起きるのです。ちなみに、初期研修における経験項目では感染症は
ウイルス感染症(インフルエンザ、麻疹、風疹、水痘、ヘルペス、流行性耳下腺炎)、細菌感染症(ブドウ球菌、MRSA、A群レンサ球菌、クラミジア)、結核、真菌感染症(カンジダ症)、性感染症、寄生虫疾患となっています。ここは笑うところですよ。
ここにおいてリストに載った病名を経験することが、手段から目的に転化し、「その経験をどう今後にいかすのか」といった観点はおざなりになります。ただリストを埋めて研修修了の条件がわかりやすくなる、といった実利的スケベ心もここにはかいま見られます。この時点において、研修カリキュラムは単なる形式主義に陥ってしまうのです。
誤解のないように申し上げておきますが、経験に意味がないとかいう経験否定をぼくはしたいわけではありません。経験は貴重です。しかし、その経験から何を得ることができるか、そして経験だけでは何が足りないのかという吟味を込めた経験でなければ、それは単なる形式主義的な繰り返しに過ぎないと申し上げているのです。いわば、風邪に何十年も抗生剤を処方するという臨床経験となんら変わりありません。
形式主義の別の例はICD制度です。あれも、3回のレクチャーという経験が資格を担保するのであって、そこから何を得られたのかはいっさい顧慮されることはありません。「ICDは一応持ってるんですけど感染症は詳しくないんです」という背理的な相談をぼくがしばしば受けるのは、そのためです。
話はずれますが、各団体がバラバラに認定している感染症関係の資格制度は統一すべきです。お金がいくらあっても足りませんし、ビギナー向けのICD講習をベテランも同じように聴かせるのは非効率、かつ苦痛です。英検のようにレベル化して今のICDをレベル1,化療学会の抗菌薬なんとか指導医、、をレベルなんとか、、というふうに複数団体の合同認定制度にし、あるものをクリアしたら他はもう受けなくてよいというような合理化をすべきだと思います。
さて、エクスパンドしていく感染症学領域において、「経験したもの」リストをチェックしていっても未来には対応できないことが分かります。では、どうすればよいかというと、「経験したことがないもの」に対する対応力を教えるべきなのです。
見たことがない菌、経験したことがない病気に遭遇したとき、いかに対応すべきか。誰に相談すれば良いのか、どの教科書がオーセンティックで信頼に値する教科書なのか、どのように文献検索をし、どの文献をどのように読むべきなのか、こういう知恵を習得してもらわねばなりません。
文献をただ読んでいるだけではだめで、文献のもつ外的な意味を理解する理解力も必要です。先日、大腸菌菌血症を伴うIEを見ましたが、そのときぼくは病歴から大腸菌の菌血症は別物で、IEの原因は別にあると判断しました。ところが、ある医師が論文を持ってきて「いやいや、大腸菌でもIEはおこしうる。ここにその症例が論文になっている」と反論しました。結局このケースはS. bovisのIEだったのですが、このとき「大腸菌によるIEの報告がある」という文献はむしろ判断の目くらましになりました。症例報告になっている、ということはそれを目の前のケースに即アプライできるという意味ではありません。逆です。症例報告がパブリッシュされているということ、そのことが、むしろその事象が「レアなケース」であることの証左であることを意味しているのです。このようなメタ認知能力もこれからのエキスパートには必要です。
文献の吟味能力はとても大事です。今でも製薬メーカーからの情報提供を鵜呑みにしているドクターはたくさんいます。ぼくは研修医がMRさんとコンタクトをとることを禁止し、メーカー手動の「勉強会」と称するものは絶対に行いません。ある医師に、「先生、MRさんなしで、どうやって情報を手に入れたらいいのですか?」と問われて絶句したことがありますが、まさにこのような医師を減らすためにも、後期研修医教育の深化は大切なのです。先日も○社がMRSA肺炎に対してうちの薬がよいという論文が出ました、と持ってきました。ところが、実際にぼくらで文献を読んで吟味すると穴がたくさんある。もちろん、メーカーは穴を見せないか、矮小化するかします。データは自分で吟味しないといけないのです。感染症医はデータを吟味できる能力が必要です。
それに、感染症治療はAという薬が効くか、否かではなく、AとBとCのうちどれが妥当かという「妥当性」を吟味する治療営為です。メーカーは一意的な「うちの薬」の吟味か、せいぜい別の一つの薬との比較(それもバイアスのかかった)しかしません。感染症治療にかんして言えば、このようなアプローチでの勉強は実をなさないのです。
ぼくは、製薬メーカーに敵対的であれ、と主張しているのではありません。医薬品の開発、吟味、審査・承認など専門家が製薬メーカーと協力しなければならない領域はたくさんあります。しかし、こと商品のプロモーションについては我々臨床医はここから厳しく距離を置かねばなりません。一昔あった、ある特定の薬をランチョンセミナーでプロモートするような感染症医は、抗菌薬メーカーの太鼓持ち的な感染症医は、未来の感染症医ではありません。
ここからプロフェッショナリズムという問題が浮かび上がります。プロフェッショナリズムとは、スライドで利益相反を提示したりといった「手続き」でなんとかなるものではありません。それはあまりにもアメリカンなプロフェッショナリズムです。アメリカでは現在プロフェッショナリズムの議論が盛んで、そのルール作りに一所懸命ですが、そのルール作りそのものが医師のプロフェッショナリズムを劣化させていることに気付いていないようです。「他者の目」に規定され、そのルールを守っている医者は自律的なプロフェッショナルとは呼べません。コンプライアンス遵守というスローガンが「ルールさえ守れば(あるいはバレなければ)なにをやってもよい)と各専門家の質を下げているのと同じ構造です。カントの道徳論は賛否両論ですが、自律的な道徳論であるという点、他者に規定されない道徳論という点では評価に値します。その自律性を涵養するのも、未来の感染症医教育の大事な点だとぼくは思います。
患者把握学の涵養も重要です。従来は微生物と抗菌薬の1対1関係だった感染症学ですが、「患者の容態」が重要であることが分かってきました。ADROPやCURB65などの予後予測、糖尿病足感染症の抗菌薬選択など、「患者はいかなる患者か」を知らないとうまく治療が出来ないのでした。先日、眼トキソプラズマ症の患者を見ましたが、動物曝露について質問したら「犬を飼っているが、家族が管理しているので自分は触っていない」とのことでした。ところが良くきくと、これは猟犬で、猟でとれた動物の肉は患者が処理していたのでした。このへんの細かく文脈に沿った病歴聴取は感染症診療において非常に重要なのですが、病歴聴取は学会専門医のカリキュラムには入っていません。
最後に、未来の専門医は教育能力を持たねばなりません。患者を、ドクターを、コメディカルを教えることができて初めて感染症医は現場で感染症医たることができます。学生、初期・後期研修医の指導能力も大事です。ですから、教育能力というのが必須になるのですが、こういう点は現行の専門医の要綱からは外されています。さらにひどいことに、指導医制度というのがあるのですが、これに5年間というギャップが存在する。ぼくは本日いらしている青木洋介先生に再三にわたって指導できなければ専門医ではなく、専門医になったら自動的に指導医であるべきだと申し上げてきました。指導医になれなければ、研修施設になれないからです。多くの若手医師がこのせいで、優良な教育を受けながらも専門医を取得できないという差別に甘んじています。近年、指導医講習会が義務づけられるようになりましたが、今回の真菌症とインフルエンザという「指導」とは何の関係もない講習会です。指導医とはなにか、という理解がまったくないように僕には思えます。繰り返します。指導医制度は専門医制度に修練されるべきで、全ての専門医は指導医になれるべきです。これは感染症専門医が足りず、もっと増やしたいという学会の目的にも合致します(質を下げることなしに、です)。専門医には教育能力の涵養が必要です。このことも、未来を見据えた提言として申し上げます。日本の感染症専門医制度が世界の模範になり、これを真似たいという国がたくさんできるよう、我々が我々のやっていることに対して誇りを持てるよう、前を向いてさらに精進していきたいと思っています。
http://www.kansensho.or.jp/senmoni/info/50.html
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