書いている本の原稿一部。長いのでお時間ある方はお付き合いください。
カントは、あらゆる自然研究者は二つのグループに分類できると「純粋理性批判」の中で述べました。同質性の原理により関心をもつグループと、特殊化の方に傾くグループの二つです。折口信夫はこれを「類化性能」と「別化性能」という表現で分類しました。
ぼくたちが国際比較をするとき、そして大好きな「日本人論」を展開するときは、定型的に別化性能を最大限に発動し、「特殊化に」傾きます。いわく、○○国はこうである、翻って我が国では、、、という論法です。
もちろん、AとBを同じと見なすか、異なるものと見なすかはあくまでも恣意的な営為であります。要するに、どっちともとれるわけです。たいていの論争は類化性能と別化性能の恣意的な特性に気がつかず、そこに「正しい解」があると信じ込んで失敗するのです。フェミニストとアンチ・フェミニストは男と女の同質性と特殊性において対立し、捕鯨反対派と容認派は鯨が人と同質(あるいは類似)か異質な生物かにおいて対立し、人工中絶容認派(pro-choice)と反対派(pro-life)は受精卵と出生後の状態を同じと見なすか別物と見なすかにおいて対立します。どちらにも「正しさ」はなく、あくまでも恣意的な選択だけがそこにあるのですが。
さて、アメリカも「アメリカはこんな国である、翻って我が国では」的に語られやすいのですが、ここでは「アメリカも日本も似たようなもんじゃない」的に考えてみたいと思います。もちろん、これもぼくの恣意性がなす業ですので、その言説の「正しさ」を主張するものではありません。
似ている、似ていないというのは主観的な指標でそこには客観性はありません。多い、少ない。大きい、小さいと言うときと同じです。テレビのニュースで「最近は凶悪犯罪が多いですね」とか簡単に言いますが、「多さ」は主観が決める指標なのでそれを客観的な事実であるかのようにしゃべるのはどうあなあ、と思います。1万円は客観的な数字ですが、これを「多い」と思うかどうかは主観がなせる業「だけ」です。
アメリカと日本は似てるか、似てないか。これは地球と月が遠いか、近いかに似ています。それは見ている視点によって異なります。地上から見ると月はずいぶん遠くに見えますが、銀河系の外から見れば、両者は同じ所に見えるでしょう(いや、見えないか)。人とショウジョウバエの遺伝子は共通点が多く(いけね、これも主観だ)、そのためショウジョウバエは遺伝子の研究によく用いられます。さて、あれとぼくらを「似ている」ととるかは、やはり主観のなせる業。で、ぼくの意見は、アメリカと日本にはいろいろと異なる点はあるけれども、視点によれば結構似ているな、というものです。日本人はアメリカ人大好きな人と、大嫌いな人がいて、その間があまりないのですが、これはその類似性がなす好感と、同じ類似性がもたらす親近憎悪なのではないかと、ぼくは想像します。
木田元は「反哲学入門」(新潮社)のなかで、「哲学は欧米人だけの思考法である」としています。日本人にはアナクシマンドロスやヘラクライトスのソクラテス・プラトン以前の古代ギリシアにあった自然に親和性の強い哲学や、あるいは行き詰まりを見せていたキリスト教文化=ヨーロッパ文化に真っ向から戦いを挑んだニーチェ(とそれ以降)の哲学は理解しやすい。しかし、ソクラテス・プラトンからヘーゲルに至るまでの形而上学的、超自然的思考は日本人には分かりにくい、、、こう木田さんは説明します。まあ、ぼくにとってはニーチェもハイデガーもレヴィナスも極めて高い頂なので、「はいそうですか」とは言いにくいですが。でも、木田さんの言わんとする所はなんとなく分かるような気がします。
これは同時に、日本人にはキリスト教精神とかキリスト教文化が骨の髄まで染み入っていないこととも関係していると思います。もちろん、日本にもたくさんの教会がありますし、クリスチャンもいます。聖書やキリスト教の知識も流布しています。けれども、我々の五臓六腑に染み入ったかたちでのキリスト教はここにはない。そのキリスト教徒との対峙、葛藤こそがヨーロッパの哲学の「キモ」だとぼくは思いますから、日本人にはすんなり理解しにくいのも当然だと思います。同じことは「民主主義」「社会主義」といったイデオロギーについても言えるかもしれません。軍国主義からあっさり民主主義への宗旨替えを行った日本には、そのイデオロギーに至るまでの葛藤をあっさりスルーしたのでした。
むしろちがったカルチュアの精神的作品を理解するときに、まずそれを徹底的に自己と異るものと措定してこれに対面するという心構えの稀薄さ、その意味で のもの分りのよさから生まれる安易な接合の「伝統」が、かえって何ものをも伝統化しないという点が大事なのである。とくに明治以後ドンランな知的好奇心と 頭の回転のす早さーーそれはたしかに世界第一級であり、日本の急速な「躍進」の一つの鍵でもあったがーーで外国文化を吸収して来た「伝統」によって、現代 の知識層には、少くも思想にかんする限り、「知られざるもの」への感覚がほとんどなくなったように見える。最初は好奇心を示しても、すぐ「あああれか」と いうことになってしまう。過敏症と不感症が逆説的に結合するのである。たとえば西欧やアメリカの知的世界で、今日でも民主主義の基本理念とか、民主主義の 基礎づけとかほとんど何百年以来のテーマが繰りかえし「問わ」れ、真っ正面から論議されている状況は、戦後数年で「民主主義」が「もう分ってるよ」という 雰囲気であしらわれる日本と、驚くべき対称をなしている
丸山眞男 「日本の思想」(岩波新書)より
ときに、木田さんは「哲学は欧米人だけの思考法である」と書きましたが、ぼくは「欧」と「米」を区別したいです。もちろん、これも類化性能と別化性能、どちらをより強く発動させるかの恣意性の問題なので、木田さんが「間違っている」という主張ではありません。
アメリカではもちろん日本と異なり、キリスト教文化が骨の髄まで染みついています。しかし、後述するようにそれはあっさりと葛藤なく取り入れられ、そしてあらゆる事象はキリスト教と対峙する形、キリスト教と葛藤するかたちでは議論されてきませんでした。ルター・カルヴァンのように既存のキリスト教に大改革をもたらしたり、ニーチェのようにキリスト教に真っ向から戦いを挑んだり、ということはなかったのです。日本ではキリスト教は普遍的でなく、アメリカでは普遍的ですが、それとの「葛藤」がない点では同じなのです。
ところで、トクヴィルは興味深いことを言っています。
文明世界で、合衆国ほど人が哲学に関心をもたぬ国はないと思う。
「アメリカのデモクラシー」第二巻17ページ
ね、びっくりでしょ。トクヴィルはフランス人の目からアメリカという国を観察した人で、「欧」と「米」を区別して考えました。いや、彼の目には「欧」という概念も大ざっぱすぎたことでしょう。イギリスとフランスとドイツは全然違うわけです。ぼくらにとって、タイとマレーシアと北朝鮮と中国と日本を全部ひっくるめて「アジア」とまとめられるのは違和感たっぷりなように。
さて、ではなぜトクヴィルはアメリカには哲学がないと考えたのでしょうか。
実は、その理由は日本と結構アナロジーがあるのです。
まず、イデオロギーから言うとアメリカは最初から「民主主義」の国でした。トクヴィルのフランスが君主制からあれやこれやの長い長い紆余曲折を経てやっとこさ得たデモクラシー(というか、トクヴィルの時代=19世紀前半にはまだフランスにはデモクラシーは確立していませんでしたし)に比べると、独立戦争だけで理念的国歌を作り上げたアメリカのイデオロギーの確立はいかにも「あっさり」していたように見えたことでしょう。もちろん、アメリカはその後も例えば奴隷制度をどうするかなど国内での葛藤はたくさんあったのですが、それは日本においてもあれやこれやの葛藤があったわけで、相対的には日本もアメリカもイデオロギーの確立は「葛藤の上に葛藤を重ねてやっとこさ」というよりは「あっさり」だったわけです。
アメリカ人は彼らに固有の哲学流派をもたず、ヨーロッパで相争っているいかなる哲学流派にもまるで関心を示さない。それらの名前さえほとんど知らない。
それにもかかわらず、合衆国のほとんどすべての住民が精神を同じように導き、同じ規則に従って頭を働かせていることはたやすく見てとれる。すなわち、彼らはその規則を定義する労こそとったことがないが、彼らすべてに共通のある哲学の方法を有するのである。
上掲書
この文章なんか、「アメリカ人」を「日本人」に「合衆国」を「日本」に変えても全然違和感がありません。ね、結構似ているでしょ。
ここでトクヴィルが指摘しているのは、アメリカにおいて哲学的なコンセプトや手法が存在していない、ということではありません。そうではなく、そこに葛藤、紆余曲折がないのです。
アメリカはだからデカルトの教えを人が学ぶこと最も少なく、これに従うことはもっとも多い国の一つである。これは驚くにあたらない。
アメリカ人がデカルトの作品を全然読まないのは、社会状態が彼らを思弁的研究から遠ざけるからであり、その教えに従うのは、同じ社会状態がこれを採用する方向に自然に彼らの精神を向かわせるからである。
上掲書
これを言い換えると、「思考停止」だとぼくは思います。アメリカにも概念や主義、主張、判断はありますが、あまり「葛藤」がない(もちろん、相対的に)。うじうじ悩むことが少なく、「私はこれが正しいと考える」という判断を元手に行動するのです。このへんも、日本とよく似ています。トクヴィルは階級社会(ヨーロッパ・レベルの)の欠如がアメリカにこのような葛藤の欠如をもたらしたと分析します。
このような社会に生きる人々が、属する階級の意見を自分の信念とすることはましてありそうにない。なぜなら、そこには階級はないも同然であり、なお存在する階級も、構成要素の変動が激しいために、集団全体が成員に本当に力を及ぼそうとしてもできないからである。
一人の人間の知性が他の人間の知性に働きかける作用について言えば、市民がほとんど同じになって誰もが親しく付き合うような国、言い難い偉大さや優越性を誰にも認めず、真理のもっとも明白で身近な源泉として絶えず自分自身の理性に立ち返る国にあっては、そのような作用は必然的に強く限定される。このとき、ある特定の人間への信頼が失われるだけでなく、およそ他人の言葉を信用しようという気がなくなる。
誰もがだから固く自分の殻に閉じこもり、そこから世の中を判断しようとする。
判断基準を自分の中にしか求めないというアメリカ人の習慣は彼らの精神をまた別の習慣に導く。
彼らは実生活で出会う小さな困難をことごとく人の援(たす)けを借りずに解決しているので、そこから容易に、世界のすべては説明可能であり、知性の限界を超えるものは何もないと結論するようになる。
こうして、彼らはとかく自分の理解し得ないものの存在を否定してしまう。不可思議なるものに滅多に信をおかず、超自然的なものをほとんど頑として受け付けないのはこのためである。
上掲書
日本人もアメリカ人も目に見えるもの、自然的なものには親和性が高いのですが、超自然的なもの、自分の叡知を越えて理解しがたいものとの「葛藤」は苦手な「あっさり」な人たちです。葛藤とは他の概念、すなわち「他者」との対話です。他者との対話、ディアレクティーク=弁証法がヨーロッパの哲学の「キモ」だとぼくは思うのですが、日本人もアメリカ人も他者との対話がとても苦手です。だから、同意見の人たちと「つるむ」か、自分と考え方が合わない人間は徹底的に罵倒するかのどちらかの選択肢しかもちません。
アメリカ人はよくディベートのトレーニングを受けており、議論が上手、なんて言う人がいますが、これは大きな間違いです。ディベートは、ある立場=党派性を持ち、その立場から論敵を打ち負かすテクニックです。しかも、たちが悪いことにアメリカではAの立場においても、Bの立場においても論敵を打ち負かす技術を子供の時から伝授されます。AとBの役割をわざと入れ替えるのです。これは、両方の立場から議論する能力を涵養する、という建て前がついていますが、実際には「どのような意見を持っていてもテクニックの高い者が勝利を得ることができる」という信念に他なりません。AとBのどちらが本当に正しいのか、あるいはそれをアウフヘーベンしたCというソリューションがより得られるのか、そんなことは関係ないのです。要するに、ディベートのテクニックとは「上手にスマートに相手を罵倒し、自分の正当性を認めさせる」テクニックに過ぎないのです。そのテクニックが「勝つか負けるか」という二元論の法曹界=裁判において極めて有効に活用されるのは言うまでもありません。
ましてや、そのようなテクニックすら伝授されずに「固く自分の殻に閉じこも」った日本人はさらに悲惨です。そこでは相手の空気を読んで自分を押さえ込むか、空気を読まずにでかい声を張り上げて恫喝まがいの自己主張をするか、あるいは逃げるか、そんな、なんとも情けない選択肢しか残っていないからです。
日本人が「辺境」にあって日本独自の行動原理を運用し、これが「グローバリズム」とは親和性が悪いことは、皆薄々気がついています。現在の議論はそれをよしとするか、ダメと考えるかの好みの問題です。一方、アメリカのほうも、「固く自分の殻に閉じこも」り、アメリカ独自の行動原理を運用し、これにグローバリズムという名前を付けて、他国に押し付けます。これに頭を垂れると同盟国となり、反抗すると戦争その他で叩かれます。両者は表現型こそ異なれ、その行動原理である哲学=対話の欠如という点では恐ろしいほどそっくりなのです。
さて、アメリカにはキリスト教、特にプロテスタンティズムが普及しています。その禁欲主義的な性向が労働者の生産性向上をもたらしたと指摘したのはマックス・ウェーバーです。その労働者の余剰労働がもたらす価値を搾取する資本家と労働者の関係を看破したのがカール・マルクスでした。禁欲主義的なプロテスタンティズムと、現在のアメリカのような「金もうけ主義」=市場原理主義が同居するのは、ちょっと不思議なのですが、トクヴィルによると
アメリカでは、物質的幸福を求める情熱は常に排他的というわけではないが、一般的である。
他方、私は、豪勢この上なく、放埒きわまる貴族階級の中に時に見られる物質的幸福に対するあの見事なまでの軽蔑を、合衆国の金持ちの間には決して見ることがなかった。
とありますから、アメリカでは昔から貧乏人も金持ちも、物質的幸福を希求していたようです。さらに、
アメリカでは、宗教がいわば進んで自己に限界を付し、宗教的秩序と政治的秩序がまったく明確に別れているので、古い信仰を揺るがすことなく、容易に古い法律を変更することができた
上掲書
そうですから、プロテスタンティズムと市場原理主義もプラグマティックに同居してしまうのかもしれません。あるいは、哲学的な「対話」や「葛藤」がないために(プロテスタントなのに、こんなに金もうけしていてよいんだろうか、、みたいな)、そのへんはぼんやりとスルーしてしまったのかもしれません。正直言って、この同居はちょっと気持ち悪いです。あまり納得のいく説明を聞いたことがありません。まあ、ここだけの話、アメリカ人のキリスト教を日本的な
「建て前」
と説明すれば全てはうまく納得できるのですが、そんなこと言ったらすごく怒られますよね。
ただ、それはそれとして、アメリカ人に「本音と建て前」がないかというと、そうではありません。アメリカ人が常に本音トークをしているなんてあまりにもナイーブな見方です。アメリカ人は容易に禁欲の美徳を説きながら金もうけをし、フェアネスを大事にしながらアンフェアな要求をし、自由と平等を説きながら差別します(もちろん、我々日本人も、まったく同じような「本音と建て前」をもっています)。このことは後述します。
さて、ご存知のようにアメリカは市場原理主義、つまりは金もうけ中心主義を取りました。後述のようにこの「金もうけ中心主義」はアメリカのあらゆるところに適応されている強い理念です。もちろん、日本も現在はアメリカから直輸入した「金もうけ中心主義」国で、両者はとてもよく似ています。
1980年代、日本は巨大な貿易黒字を作り、エコノミック・アニマルと揶揄され、アメリカとは巨大な貿易摩擦が起きていました。日本の市場は外国には閉鎖的で国内の需要は国内生産物でおおよそ満たされ、アメリカの製品は日本市場に入りにくい状況にありました。ローラ・D・タイソンによると、それは制度的にも市場構造的にもそうでした。日本の製造物認可制度はアメリカよりも厳しく、「リスクをできるだけ排除したい」方針でしたから、アメリカ製品はなかなか市場に入れなかったのです。また、逆に日本製品はアメリカにたくさん入ってきて、たくさん売れました。特にレーガン政権時代は税金を減らして内需拡大を意図的に行ったため、アメリカ人はどんどんものを買ったわけです。アメリカの景気は良く、日本製品は飛ぶように売れました。
しかし、いくら内需が拡大してもアメリカ製品は売れない。アメリカの産業界は怒りました。そこで、日本製品は不当に安すぎる、ダンピングであると文句を言いました。1988年には「包括通商・競争力強化法」、いわゆるスーパー301条を施行し、「不公正」と見なされる貿易取引に対して報復的な関税引き上げを実施できるようにしました。日本製の半導体やスーパーコンピューターが関税引き上げのターゲットにされました(もっとも、その安い半導体のおかげでアメリカのメーカー、さらには消費者は恩恵を受けていたわけで、半導体のほうは関税引き上げを見送られることになりました)。また、日本に外圧をかけて、アメリカの製品を日本市場に入れるよう政治的な介入を行いました。日本のほうはモノがバンバン売れるものだから貿易黒字は拡大し、余ったお金で土地や株を買い漁るという事態になりました。いわゆる「バブル経済」です。
さて、アメリカは内需拡大のために大幅な減税をしました。国内でモノがたくさん売れれば税収が増えるから、減税は問題ないと考えたのです。ところが、実際には内需が拡大してアメリカ人がたくさんモノを買っても税収は増えず、財政赤字は増える一方でした。貿易のほうはもちろん赤字ですから、「双子の赤字」になります。アメリカでは国歌も国民も借金だらけでモノを買いまくるという「金もうけ中心主義」丸出しの事態になりました。日本は日本で、国も国民もお金持ち(黒字)になり、やはり物を買いまくるというこちらも「金もうけ中心主義」です。
日本は日本で閉鎖的な市場とダンピング(と認定される安売り)を行いました。アメリカはアメリカで関税引き上げのための法律を整備したり、外圧をかけたりしました。ダンピング(と認定された安売り)や外圧が正当なものであったのか、あるいは不当なものであったのか、ここではそれは議論はしません(すれば恣意性に引っ張られたケンカが起きるだけでしょう)。ただ、一つ言えることがあります。表現型こそ異なりますが、日米両国の行動原理はまったく同じ。テメエさえよければよいというミーイズムと「金もうけ中心主義」です。ほんと、両国はよく似ています。
1990年代に日本のバブルははじけ、経済は停滞しました。少し時代はずれましたが、アメリカでも2000年代後半にバブルがはじけ、やはり同じように経済は停滞しています。しかし、両国の行動原理である「金もうけ中心主義」は依然として残っています。政治経済的議論の主題は常に「金」だけでした。例えば、アメリカでは2011年にウォール街などビジネス街の前にテントを張って抗議行動を行う若者たちが増えました。ぼくも学会で訪れたボストンのビジネス街でデモを行っているたくさんの若者とテントの群れを見てびっくりしました。しかし、これはアメリカが「金もうけ中心主義」から離脱しようとしていることを意味しません。彼らが抗議しているのは「あいつらが金持ちなのにおれたちが金を持っていないのはけしからん」というルサンチマンが生じさせた抗議だからです。「お金なんてもういいじゃない、他のことを考えよう」と思っていたら、「はいはい、ウォール街の人たちは今日もお金もうけ大変ですね。がんばってね」とスルーし、自分は別の価値観に基づいて行動するはずだからです。
2005年にハリケーン・カトリーナがアメリカを襲ったとき、被害を受けたニューオリンズなどでは低所得者層の避難や救助が遅れ、貧富の格差が被害の格差となる悲惨な事態になりました。「ルポ貧困大国アメリカ」によると2007年になってもニューオリンズ市住民の半数以下しか帰還できず、60%は電気が使えない状況だったといいます。避難民に提供された連邦政府の土地は分譲、つまりは販売されたために富裕層しか購入できず、多くの低所得者層は泣きっ面に蜂で住む所を失いました。
2011年3月11日に襲った東日本大震災とその後起きた原発事故では多くの人が被害に遭いましたが、低所得者層がとりわけ差別的な扱いを受けるということはありませんでした。また、原発事故は悲惨でしたが、「金もうけ中心主義」=効率中心主義が安全な生活と両立しない概念であることを我々に気付かせました。
脱原発は簡単な道ではありません。火力発電所は材料=原油調達の困難がありますし、安全性や二酸化炭素排出の問題を克服しなければなりません。というか、そもそも原油はいつかは(おそらくは何十年後かには)枯渇してなくなります。太陽光発電などのその他の発電手段も技術的、コスト的困難が多いのが現状です。技術的革新(イノベーション)が起きれば大丈夫や、という意見も聞いたことがありますが、そもそもイノベーションは先が読めないからイノベーションなのであり、計画通り予定通り開発されるものはイノベーションとは呼べません。第一、そのイノベーションを期待して多額の投資をし、見事にポシャったのが核エネルギー分野(高速増殖炉「もんじゅ」や核燃料サイクル)ではないですか。多額のお金と政治力を費やした原子力分野で頓挫したイノベーションが、他のエネルギー分野なら起きるという確信はどこから得ればよいのでしょう。
そんなわけで、ぼくらが原発の災厄をこれ以上受けないためには、「金もうけ中心主義」から離脱し、効率だけを希求するのを止め、それ以外の選択肢を取る以外にはありません。それは、苦痛を伴う選択であり、ためらいを覚える選択です。結局の所、現在の日本には(そして世界中のほとんどの国にも)オールハッピーで万能な選択肢などどこにも残っていないのです。だれが政権をとり、総理大臣になってもイマイチな感じがするのも、ある程度は致し方がなく、政権が変わって総理大臣が(また)変わっても、やはりその政権はオールハッピーな政策など出せないことでしょう。そのことに、オールハッピーでない、苦々しい、「金もうけ中心主義」ではない選択肢を自ら進んで選び取る覚悟を、ぼくらはもつ必要があるのです。
医療の観点から、日本はTPPに参加すべきか
さて、これまでの議論を踏まえて、議論されているTPPに参加すべきかどうか、医療の観点から考えてみたいと思います。
結論から言うと、ぼくの今の段階での見解は「どっちでもよいんじゃないの」です。あくまで医療の観点から、です。
ぼくが「医療の観点」というのは「医療の立場」からでありません。ぼくは党派性を好まないので、「立場」から語るのを好きではありません。医療について話すときも、「世の中には医療以外にも大切なことがたくさんある」というより巨視的な観点から議論すべきだと考えています。党派性は常に判断の目を曇らせます。ほとんど、例外なく。
では、なぜTPPの参加は「どっちでもよい」のか、その理路を以下にお示しします。
すでに振り返ったように、80年代後半から貿易摩擦が日米間で生じ、アメリカは日本にあれやこれやの外圧をかけてきました。例えば、モトローラ社はポケットベルや携帯電話の市場に入りにくいからと、政治圧力をかけてもらって日本の市場をこじ開けてもらいました。フィルムメーカーのコダック、自動車三大メーカーのGM、フォード、クライスラー、、、たくさんのアメリカ企業が外圧によって日本市場に参入しました。
はい、お気付きの方も多いでしょう。外圧によって日本市場に入り込んだ企業はほとんど全滅状態です。
モトローラ社はモバイル事業不振で2008年に分社化しました。GM、クライスラーは経営破綻で連邦破産法を2009年申請(その後経営再建中)、フォード社も経営不振で提携していたマツダの株を大量売却、コダック社も2012年1月に連邦破産法を申請しました。ぼくらは街を歩いていても、モトローラのマークの入った携帯電話やGM、フォード、クライスラーの車を見ることがほとんどありません。外車といえば、ほとんどがヨーロッパの車です。たまにコルベットとかPTクルーザーを路上で見かけることはありますが、あれは個人が「買いたい」と思ったから購入したものです。決してガイアツの結果ではありません。
もちろん、こういう事実を「アメリカざまあみろ」的な議論の根拠にすべきではありません。アメリカ製品はたくさん日本に売れています。アップル社のiPod、iPhone(アイフォーンってカタカナ名はどうも違和感ありますね)、iPadなどは日本でも諸外国でもものすごい人気ですし、マクドナルドもコカ・コーラももうほとんどぼくらの生活に密着しており、あれがアメリカ産なのかどうかすら、気にもしていません。また、日本製品もかつてのように外国で売れなくなりました。2011年、日本は数十年ぶりに貿易赤字に転じました。もちろん震災の影響もありますが、それがなくても早晩貿易収支は赤字になっていたと考えられています。円高も原因の一つですが、理由の一つに過ぎないと思います。ユーロが高かったときにもベンツや高級ワインは売れていましたから。外国に行くと家電も携帯電話も韓国とかヨーロッパの製品がほとんどです。漫画や任天堂のゲームのような「ジャパン・クール」があるじゃないか、という指摘もありますが、これもある程度の効果しかありません(村上隆氏のように、ジャパン・クールという概念はそもそも存在しないという指摘もあります)。平成22年の日本の 輸出総額が67兆ほどです。13兆くらいが自動車で、ジャパン・コンテンツで一番売れているゲームでも1兆に満たないのです。音楽、映画、出版も輸入の方が大きく、 貿易収支改善のツールにはなりそうにありません。
さて、アメリカの外圧は意外に失敗していることが分かりました。というか、長期的にはほとんどうまくいっていません。このことは何を教えてくれているか。基本的には、モノが売れるということは、為替や外圧や関税や、いろいろな要素が複雑に絡み合ったとしても、結局その「モノ」の、コンテンツの魅力が販売をドライブするのでしょう。音楽産業が斜陽で、CDが売れていないと言われますが、AKB48のCDだけはバカ売れしています(あくまで原稿執筆時点ですが)。秋元康がプロデュースしたコンテンツが魅力的だったからでしょう。出版産業もやはり不況ですが、岩崎夏海の「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら」、略して「もしドラ」は何百万部を越える大ベストセラーになりました。やはりコンテンツがとても魅力的だったからでしょう(ぼくはAKBについてはまったく無知ですが、「もしドラ」は面白かったです)。
さあ、そこでTPPです。まあ、TPPがガイアツなのかどうかは微妙ですが、それはおいておいて。
もしTPPの結果、医療市場がより開放的になり、アメリカの医療サービスや医療保険が参入したとしましょうか。あるいはアメリカなど、諸外国の医療者、医者やナースが輸入されてきたとしましょうか。それは、我々に何をもたらすでしょうか。
日本医師会などはTPPにより日本から国民皆保険がなくなるのではないか、と懸念しています(2011年11月2日 TPP交渉参加にむけての見解 日本医師会会長 原中勝征、日本歯科医師会長 大久保満男、日本薬剤師会長 児玉孝)。おそらくそんなことは起きないと思います。理由は簡単で、アメリカ以外の交渉参加国はすべて公的医療制度を有しており、そのような貴重な制度をアメリカに合わせて破壊することに同意するなど、極めて考えにくいからです。ペルー、ベトナム、シンガポール、チリ、ニュージーランド、ブルネイ、オーストラリア、カナダ、マレーシア、コロンビア、メキシコ。すべてそうです。もちろん、各国の経済状況は様々で、医療保険制度にもそれぞれ特徴があります。例えば、シンガポールでは自助努力を促す中央積立基金と医療口座、それに医療保険を組み合わせたかたちで医療サービスが提供されます。ペルーやチリでは公的保険と民間保険の二重制度で、前者のサービスはあまりよくないそうです。以下のサイトがまとめてあって分かりやすいです。あと、シンガポールについては「アジアの医療保障制度」が詳しいですが、たいていの医療制度がそうであるように、複雑で一読しただけではうまく理解できません。
公的医療保険を有しない国のほうが珍しいのです。アメリカが例外なのです。ぼくらはすぐアメリカばかりに目を向けてしまう悪い癖がありますが、他の国ではどうなってるの?という視点は常に持ちつづけなければなりません。TPPにより日本の公的保険制度が消滅することは、あり得ないといってよいでしょう。
http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20111119/1321633020
さて、後述するようにアメリカの医療保険サービスは高コスト体質にあり、その質もよくありません。高額で低品質なサービスが外圧(的なもの)によって日本に導入されたとして、それを購入するコンシューマーはどこにいるのでしょうか。ものすごいお金持ちは高いお金を払って、質の高い医療やサービスを享受されるかもしれませんが、多くの人は低コスト(相対的に)高品質の日本の医療を受けつづけると思います。かつてモトローラやコダックや三大自動車メーカーがたどった道と同じです。また、もし低コスト高品質のサービスをアメリカが提供した場合は、それはそれで国民にとっては結構な話で、どっちに転んでもユーザー目線ではありがたいことではないでしょうか(医師会の先生には困る人が出てくるかもしれませんが)。
付言すると、現実には日本も不景気で保険料滞納者が増えており、すでに国民「皆」保険は破綻しています。日本の医療制度は世界でも極めて優れているとは思いますが、(もちろん)無謬ではありません。
混合診療についてはぼくは容認派です。必要な医療は公的医療保険の認可制度に組み込むべきだとよく主張されますが、現実には今でもそうはなっていません。偽膜性腸炎の第一選択薬は何十年も前からメトロニダゾールでしたが、いまだに適応疾患になっていません。最近は公知申請などで少しずつましになってきましたが、保険適応とまっとうな医療には常に「ずれ」があります。理念は分りますが、保険適応を決定する厚生労働省やPMDA(独立行政法人 医薬品医療機器総合機構)が理想的なパフォーマンスを示しておらず、また今後も示すであろう根拠に乏しいことから考えると、混合診療はきちんとした医療には必要不可欠なのです。
輸入医薬品や医療器具についてはすでに価格の格差が問題になっています。心臓カテーテルやペースメーカーの日本における価格は海外よりも高く、妙なジャパン・プレミアムがついています。こういった内外価格差が解消されるのであれば(TPPでそれがなされるかどうかは知りませんが)、これもエンドユーザーたる患者にとっては朗報です。
次に、医療者です。もしTPPによって、医師や看護師のライセンスをクロスライセンス制になり、海外の医療者が日本に入ってきやすく、あるいは日本の医療者が海外に出やすくなるとすれば、これはとてもよいことだとぼくは思います。
先日テレビを観ていたら、日本医師会長の原中氏がTPP反対派として発言していました(番組は失念)。医療においてコミュニケーションは大切であり、日本語での十分なコミュニケーションは大事である。だから、日本語に難のある外国人が入ってきては困る、そんな趣旨でした。
医療においてコミュニケーションは大事である、という意見には100%同意です。ただ治療薬を選択でき、手術が上手なだけでは医療者としては不十分だとぼくも思います。
しかし例えば、日本には日本語をしゃべれない外国人も増えています。彼らも病気になり、病院に来ます。そういう人とのコミュニケーションはどうすればよいのでしょう。医師会長が言うようにコミュニケーションは大事です。外国語ができる外国からの医療者がいればとても患者さんは喜ぶと思いますよ。ぼくがアメリカにいたときも、ランゲッジ・バンクというのがあって、ぼくは日本語しかしゃべれない日本人が救急センターに搬送されてきたとき、通訳をしたりして手伝いました。英語が苦手で不安一杯だった患者さんには感謝されたものです。
もちろん、外国からの医療者は日本語も理解する必要があります。しかしそのときに、過度に高レベルな日本語力を要求するのは、よくないとぼくは思います。多少たどたどしくたっていいのです。テクニカルタームは英語でお互いなんとか なることが多いはずです。日本人でも読めないような皮膚科の疾患名なんて書いたり読んだりできなくても、現場はなんとか適応できるはず。それに、ここ数十年で外国人の日本語はとてもうまくなりました。むかしは外国人は日本に住んでいても日本語しゃべれないのが「あたりまえ」だったのに。コンビニなんかに行っても普通に外国人が勤務しています。将来はもっと日本語が上手な外国人は増えるに違いありません。
今は視覚異常があっても医師免許は取れるようになりました。その医師は例えば脳外科のマイクロサージャリーとかはできないかもしれません。でも、自分の能力を活かし、 それに見合った医療は十分に行えるはずでしょう。歩行困難のある医師、難聴のある医師、吃音のある医師、いろいろハンディキャップをかかえた医師はいますが、そのハンディキャップに見合ったかたちで適切な職場を選んでいます。子育てや介護が必要で当直できない医師もいれば、持病があって長時間勤務できない医師もます。同様の発想がなぜ外国人に対して示せ ないのでしょうか。文化や言語も単なるハンディキャップの一つにすぎないと、どうして考えられないのでしょう。
「医療崩壊」というキーワードが象徴するように日本の医療者は足りません。充足が必要です。とくに地方、僻地の医療者不足は深刻なのです。もし、それを外国人が充足してくれるというのは地域社会にとってはありがたいことなはずです。
いずれにしても、日本の人口はこれからどんどん減少し、しかも高齢者(ポテンシャルな患者)の割合は増える一方です。2100年(それはぼくの子供の世代が高齢者になるくらいの短期的な未来です)には、日本の人口は4000万人代と江戸時代と同じくらいになります。しかもその半数近くは65歳以上の高齢者です。今ですら足りない医療者をどこから調達すればよいのでしょうか。日本の少子化対策は全然うまくいっていませんし、うまくいっていると言われているフランスやスウェーデンでもカップルの出生率は2.0前後で、現状維持がやっとです。
というわけで、好むと好まざるとに関わらず、ぼくらやぼくらの子供たちの世代が老人になってまっとうな医療や介護のサービスを受けたいのであれば、外国人参入は必然です。手塚治虫の火の鳥シリーズに出てくる介護ロボットみたいなのが開発されれば話は別なのかもしれませんが、イノベーションに過度な期待をしてはいけないというのは前述の通りです。それにロボットに医療や介護を任せるのと、外国人に任せるのってどっちがいいですか?皆さんは。
さて、ぼくはTPPの導入は医療の観点からは「どちらでもよい」と申し上げました。混合診療やクロスライセンスなどの問題やは各論的な問題で、TPPと「同義」ではないからです。それはそれ、これはこれとして各個に議論しなければなりません。ざっくり、大ざっぱな議論はたいていうまくいきません。常に各論的に議論すべきなのです。
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