今書いている書き下ろしの一部です。ちょっとご紹介。
ところで、TPPの推進、反対の議論の中で「グローバル化する社会でTPPに参加しないと議論に乗り遅れる」という「賛成派」の議論があった。日本における「グローバル化推進派」の口調はたいていこうである。曰く、日本は世界の中でこんなに遅れている。こんなに取り残されている。さあ、追いつけ。
こういう日本人こそが、まさに典型的な「主体性のない」日本人である。
他国の方法論を無批判に受け入れ、思考停止に陥って追随する彼らには主体性はまったくない。彼らの顔は自信にあふれ、声は大きく、胸はぐっとそらせているのだけれど、その内面は「他国のやり方をコピーする」という実に受け身でうち向きなのである。
ウォール街で流行っているスーツをビシッと着て、アメリカ人っぽい英語をぺらぺらしゃべり、ウォール・ストリート・ジャーナル、タイム誌やニューヨーカーを読みこなしてアメリカ人が話題にするような話題に精通している日本人を「グローバルな人材」と呼べるであろうか。ぼくがアメリカ人であれば、こんな日本人は別段、相手にしたいとは思わない。
英語はたどたどしくても日本の習俗や方法論や文化を熟知している人物の方が、おしゃべりしていてよりエキサイティングなのではないだろうか。小津安二郎の映画の本質を語ることができ、村上春樹の小説のよさを説明でき、日本の伝統芸能や武道に精通した人物こそ、彼が対話したい人物なのではないだろうか。真にグローバルに通用する人物とはこういう日本人である(書いてて気付きましたが、これってまさに内田樹先生その人ですね)。
もちろん、内田先生のような(真にグローバルな人材)は、幕末の武士たちのように自分所有の文化を過信し、他国の文化を無視したり貶めたりするような狭量さをもっていてはいない。日本の文化に精通する「だけ」ではグローバルな人と呼べないのはもちろんである。いつもいつも、他国よりも日本のほうが優れているという原理主義的な信念(それは、思想というより信念だ)はグローバリズムとはかけ離れているし、グローバリズム云々とは関係なく見苦しい。
「ネット右翼」と称される人たちに代表される、日本をやたらに褒め称え、中国人や朝鮮人を罵倒し続ける人たちがいる。非常に奇妙な人たちである。
彼らは、自国(日本)の国威を称揚し、日本が諸外国に比較しての絶対的優位を主張し、それを他国人が絶対的に認めることを希求する。ところが、その彼らが実際にやっていることは日本人のぼくが見ても恥ずかしくなるような下品で醜い言葉をばらまいて中国人や朝鮮人を罵倒する。あれを読んだらたいていの外国人は「日本人はこんなに下品で醜い人たちなのか」と思うだろうし、日本人だって自国民のあのような態度を恥ずかしく思うだろう(あいつらは別だ、と切り捨てない限り)。というわけで、彼らは日本と日本人の国威・栄誉の高揚を希求しつつ、かつそれらを失墜させるようなことを意図的に行う、非常に奇妙な性向の持ち主なのである。
いや、これは性向のせいだけなのではないのかもしれない。このようなネット上の行動・言動パターンがすでに彼らの中にビルドインされている。彼らは匿名である。しかしそんなことはどうでもよい。なぜなら、どのコメントも似たような定型的な言葉しか放っていないのだから。「同じようなことしか言わない」彼らは思考停止状態に陥っている。他の見解、他の語り口もあるんじゃないか、という可能性をすでに放棄している。彼らは主体性から最も遠い人たちなのである。
忘れられないエピソードがある。ぼくはマンハッタンの内科研修医であった。ある日、救急からの入院患者を引き取り、これを内科の入院患者に引き継ぐというACという仕事をあてがわれた。タフな仕事である。
ニューヨーク市民の気性は荒い。(おそらく)世界一、自己主張が強い。医療者も例外ではない。救急医は雑なアセスメントで内科に放り込み、楽をしようとする。内科医は「そんなの内科入院の適応あんの?」とごねてこれまた楽をしようとする。間で板挟みになるACは両者の間を取り持つよう、巧み粘り強く、交渉を重ねなければならない。内科研修3年目に行うこのAC業務は月に数回、朝番と深夜番をこなさねばならない。実にタフな仕事だ。ここでぼくはメンタルや交渉力、理不尽な人たちの対応法を学んだ。マンハッタンのERの喧騒を思い出せば、日本で会うもっとも理不尽な人たちだって、ずいぶん穏当な常識人に見えてしまう。
当初、ぼくは戦う人だった。アメリカ人になめられてたまるか。英語が下手なせいで低く見られる自分へのインフェリオリティー・コンプレックスも手伝い、ひたすら背伸びして日々を過ごした。いつの間にかぼくの目はきつくつり上がり、いつも挑戦的で、胸を反らして「負けるもんか、おまえらには」というメッセージを振りまいて歩くようになった。そんな短慮な人物を信頼するアホウはおるまい。
ある日、同僚の3年目研修医が仕事をさぼった。その日ACをしていたぼくは困った。入院患者がたまっていくのに、引き取ってくれる内科チームの3年目研修医が不在になってしまったのだ。残されたのは1年目の研修医だが、もちろん患者をさばくだけの技量も経験も不足している。
どうしてだったのか、今でも理由は思い出せない。ぼくはヤケになっていたのかもしれない。たぶん、そうだ。気がつくと、ぼくはタフなACの業務をこなしつつ、1年目の研修医を指導しつつ、入院患者のケアをするというトリプル・タスクに取っ組んでいた。義侠心に駆られてのことではない。多分、理不尽に対する怒りがエネルギーとなり、患者ケアに振り向けられた、ただそれだけのことだったと思う。負のエネルギーが仕事をドライブすることってみなさんも(たまに)あるでしょ?
ふてぶてしく仕事をさぼる常習犯である3年目研修医は夜遅れてやってきた。「わりい、わりい、待たせたな」反省の態度も全く見せずに笑顔でやって来るラテン系のアメリカン・レジデント。
そこには、彼の予想しない光景があった。
全ての入院患者はすでにケアされていた。診断はくだされ、治療はオーダーされ、明日の予定も組まれていた。もう、すべき仕事は残っていなかった。ぼくがACの仕事をしつつ、研修医の指導をしながら入院業務を馬車馬のようにこなしたのだ。
やれやれ、なんてお人よしな日本人だろう。普段はとろいのに結構がんばったじゃないか。こんな皮肉が彼からもたらされることをぼくは予想していた。まあ、面と向かって言わないまでも、翌日のランチのネタくらいにはなってもよさそうだった。ところが、次の反応はぼくの予想しないものだった。
「健太郎、本当に悪かった。申し訳ない。感謝する」
彼は、ぼくが一度も謝ったことを見たことのない傲岸なレジデントは、頭を下げてぼくに謝罪したのである。ぼくは呆気にとられて予想外の展開に戸惑ってしまった。
このときだと思う。程度の差はあれ、人間に大差はない。アメリカ人と日本人では態度は異なる。けれども、根本的なところはそう大差はない。その差を大きいと見るか、大した差ではないと見るか。これは観察者の恣意性の問題であると。そして、舐めた態度をとった人物にとって本当に痛いのは怒りや軽蔑や苦情ではない。善意がバッド・ビヘイビアーを乗り越えることがある。いつもとはいえないが、確実にそれは起きる。これは性善説とかそういう「理屈」ではない。単なる経験則だ。
昭和天皇が崩御されたとき、ブータン国王は国を挙げて喪に服すことにした。この態度を見て、「ブータンはやはり日本から見たら格下な属国同然だな、へへ」と皆さんは思うだろうか。そうは思うまい。その義侠心に感動し、ブータン国民と国王に尊敬の意を感じないだろうか。
国が国に接するとはこういうことである。他国の態度に悪意をもって示すと、鏡をもってその悪意は反射される。ときに増幅した悪意が返ってくる。バッド・ビヘイビアーに対する最大の武器は善意と親切である。それは理念ではなくリアルにそうである。経験的に、そうである。
自分の頭でよく考え、自分の責任をもって態度を示す。それが主体性である。匿名で他国をなじり、こそこそ塀の後ろに隠れていい気になっている臆病なネット右翼たちに勇気はなく、当然主体性も存在しない。もっともっと、考えろよ、自分の頭で。
心に残る良い話ですね。勇気と力が湧いてきました。
岩田先生の文章は最近になって長足の進歩を遂げているように思います。内田樹先生の影響と岩田先生の個性が相俟っての効果なのでしょうね、きっと。私は2年目研修医ですが、年齢は岩田先生より上なので、少しナマイキな上から目線からのコメントをお許しください。
投稿情報: Yamatotti | 2011/11/16 07:46
ちきりんさんのもおもろいよ。
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20111115
投稿情報: Boo Bam | 2011/11/16 04:15