先日、日経メディカル記事を批判したが、そのとき問い合わせが来た。僕は取材を受けたときに記事のゲラを必ず事前にチェックするよう要請するが、メディアによってはそれを嫌がるところがある、というのである。
存じている。僕も「そういうことは、しないことになってるんですけどねえ」とゲラのチェックを拒まれることがある。
しかし、それは慣行であって規則ではない。
僕のような人間が大学で生き延びていくためには、「規則か慣行か」を明確に区別して議論することが必須である。世の中には「しくみ」を熟知することでその組織で生き延びていく人がいる。何十年もそこにいて、組織の構造も慣行も不文律も人間関係も熟知してその場をすいすいと生きていくのである。僕のように大学就職4年目みたいなヒトは「空気を読まず」、知識を持たず、「それは規則ですか?慣行ですか?」と空気の読めないふりをして問い続けることが大事になる。規則であれば、大人の世界であるから遵守する(もちろん、規則を変えろと要求することもできる)。しかし、慣行であればその限りではない。それが内部にとって常識であっても外の世界から(とくに患者から)非常識であれば、断固として従わないのも戦略の一つである。内部で「それはこうなってるんですよ」と訳知り顔でいわれることも、実は奇妙きてれつな奇習であることは多い。
マスメディアの世界では、インタビュイーにゲラを見せない、と公言するジャーナリストもいる。しかしそれは、「僕は記事の正確さより、面白おかしさを大事にしますよ」と宣言したも同然である。自分が専門家でない領域で、専門家にインタビューするということは、その引用の仕方が正確で、文脈をきちんととらえているか、慎重に慎重を重ねて確認をとるのが本来のプロの姿だ。しかし、それを意図的に放棄しているのだから、記事の正確性などどうでもよい、俺はプロフェッショナリズムなんて持っていませんよ、という堕落宣言にほかならない。こんな記者を相手にする気には僕はならない。僕は自分のコメントが正確に引用されていることを望む。自分の名前が新聞に出ることなど望まない。誤って引用されるのは絶対に願い下げだ。
ジャーナリストの中には、形式的な正確さだけを追求する人も多い。社説を書くようなタイプがそうである。誤字誤植、職名の正確さなどには異常なまでの執着心で正確さを希求するが、コメントの引用のされ方などについてはまったく無頓着である。「だって、そういったじゃないですか」と表面的な正確さ、事務職的な正確さだけを希求する。しかし、彼・彼女には真実を知りたいというジャーナリストの根源的な欲求がもう見えない。悪い意味で、官僚的である。プロとしては、堕落しているのである。
医療者は、取材を受けるならばゲラは絶対にチェックすべきである。プロのタイトル背負ってコメントするのであるから、読者が正しくコメントを読んでいるかはきちんと確認すべきだ。「俺のコメント、変な引用されているよ」と嘆く人がいるが、それはその人が甘いのである。チェックを怠るからいけないのである。そして、メディアにいやな顔をされたら「あっそ」といって取材を断るだけである。取材を断るのは、十全にこちらの権利である。お互いプロなんだから、これくらいは当たり前なのである。
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