当たり前だが、臨床試験は「微妙な問題」を取り扱う。露骨に明らかな問題は臨床試験の適応範囲にはない。
利き腕でない腕で手術したらどうなるか?
とか
目隠ししたまま手術したらどうなるか?
みたいなテーマで研究することはできない。このような命題は誰の目にも明らかな問題だからだ。
AとBの手術方法、どちらが有効?
という場合でも、外科医の感覚であきらかにAがよい、ということであれば臨床試験は成立しない。そのロジックは「目隠ししたまま、、」の延長線上にある。
ある人はAがよいといい、別の人はBがよいといい、治療成績は施設によってバラバラ、、、うーん、悩ましい。こういうのが臨床試験に向いている命題なのである。
そして、臨床試験を行う前に、AとBのどちらがよいかは事前に予見することは不可能である。予見ができれば臨床試験をする意味がなくなるからである。予見ができない以上、AとBのどちらに振り分けられるべきかどうかも、分からない。このような議論は、なぜかあちこちの倫理委員会でよく議論になるけれども、意味のない議論である。
患者が受けている治療が最良のものなのかそうでないのかが分からない。臨床試験のその一点を「非倫理的である」と非難する向きがあるが、そうではない。だって、どっちがよいかは事前に知ることができないのだから。いつもやり慣れた手技の方が良いだろう、というのは臆見に過ぎない。何十年も間違ったやり方を踏襲していただけ、ということもありうるからだ。手技の質を担保するには、これを検証するより他ないのである。
臨床試験が、臨床試験参加者に益を与えるかそうでないかは分からない。臨床試験が利益をもたらすことを保証するのは「未来の患者」に対してだけである。ユーフェミズムの砂糖をまとっているが、臨床試験は本質的には人体実験に過ぎない。そうよぶのが気持ち悪いから、呼ばないだけだ。臨床試験参加者に益をもたらさない(少なくとももたらすという保証がない)以上、この営為の倫理性を担保するのは、患者の十全に自主的な参加と情報公開以外にない。そここそが、倫理委員会が注目してチェックすべき事項である。
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