故あって、車のナンバープレートを交換した。陸運局に行って手続きをするのは初めて。いや、陸運局に行くのも実は初めて。ナンバープレートを交換する場所が陸運局だと知ったのも今回が初めて。人生折り返し地点をターンしても、いまだに分からないことばかりである。
警察に何度も行って車庫証明をとり、あれやこれやの書類をそろえ、あちこちの部署をたらい回しにされ、なんて煩瑣な面倒なしくみなんだと僕は嘆息する。しかし、周りにいるのはつなぎの作業服を着たりタクシーの制服を着た「車で生きている人たち」である。手慣れた調子ですいすいとあちこちのセクションを行き来し、とくに不自由を伺わせない。彼らは「しくみ」を知っている人、僕は「しくみ」を知らない人だからである。「しくみ」を知らない人に与えられた選択肢は二つ。しくみを知っている人に転じるか、しくみを知っている人にただただ教えてもらうか、である。僕はたいてい、後者を選ぶ。ぼくは「しくみ」を知っている能力で生きていく、、というタイプではないようだ。
しくみを熟知した人は、煩瑣で効率の悪いシステムをいかに上手に生きていくかを熟知している。しかし、そのシステムそのものを改善させようというインセンティブは大きくない。なぜなら、そのしくみがシンプルになったら、「しくみ」を知っているうまみがなくなってしまうから。多くの「業界」の人たちは、このような無意味に非効率なシステムを糧に生きている。しくみを知らない人に対する優越感が、エネルギー源だ。僕はそこに疑問符をかかげる立場にありたい。たとえ、しくみを熟知した人たちにアホウ呼ばわりされようとも。
優れた臨床医は、存在する。しかし、それを定量化することはむずかしい。客観的に評価することはなお難しい。しかし、それはすぐれた臨床医が存在しない、という意味ではない。教育者についても然り。
内科医にしろ、外科医にしろ、小児科医にしろ、産婦人科医にしろ、精神科医にしろ、眼科医にしろ、僕は僕のなかで優れた○○医、そうでもない○○医というある一定の基準を持っている。インサイダーから見れば、その基準は必ずしも正しくないのかもしれないけれど、基準がないわけではない。
少なくとも、経験年数ではない。少なくともそれだけではない。経験は価値の一つだが、「年数」で量るとその意味は劣化する。僕の感じる限り、「卒後何年」を気にするのは日本の医者だけである。そのことの奇異を理解すべきだ。
何十年も通用する貴重な経験という一瞬がある。馬齢を重ねるだけの意味の小さな月日もある。総計としての「経験年数」は「経験」そのものではない。その一表現形、それも極めて質の低い表現形である。
30年の研究歴がある、というだけの根拠でその人物を「優れた研究者」と断言したら、研究のプロはいやな顔をするだろう。10年の研究歴はたいしたことない、なんてなじったら烈火のごとく怒るだろう。当たり前だ。では、臨床経験何年あるから、優れているとか、そうではない、という議論があっさりと成立してしまうこのダブルスタンダードは、どこから生じるのだろうか。教育についても、然り。
僕はずっと、感染症学会の指導医要件が「専門医を取って○年」という基準になっているのに反対している。指導医はぬか漬けではない。何年経ったら、という要件はリアリティーを欠く(ぬか漬けだって人の手が必要で、「勝手に」できるわけではない)。しかし、年数が勝手に臨床能力や教育能力を担保しているという勘違いはオムニプレゼントである。まあ、年をとった先生が自分の権威を維持し、若手を抑圧する道具として使っているのかもしれないけど(未確認)。
少なくとも、子供の時の「素晴らしい先生」は年齢が規定するものではなかった。尊敬する先生が年配の先生のこともあれば、若い先生のこともあったけど、そこは基準じゃなかった。もちろん、子供が教師の価値を斟酌できるか、という問題はあるかもしれないけれど、子供に全否定されるような先生はよい教師とは呼べないし、子供に慕われる教師がダメ教師という例もないだろう。
定義はできなくても、例示できるものはある。そうヴィトゲンシュタインは僕に教えた(ような気がする)。いや、むしろ定義などはどうでもよく、例示こそが本質である。僕は優れた臨床医も例示できる。優れた教育者も例示できる。そうでない○○、、、、それも例示できる。表現しにくいものはある。分かりにくいものだってある。そういうものを安易に「ないもの」にしたりブラックボックスにする思考停止に陥ってはならない。
僕は、「そうなっている」というルールにはとことん鈍感でいたい。あれが、知性劣化の最大の原因だ。既成のルールにはてなマークを呈するのが研究者の研究者たるレゾンデートルではないのか。研究者が、「この世のルールはこうなってます」としたり顔で説明するのを見ると、非常に困惑する。既成のルールにノーと言うのがカッティングエッジな研究者の存在理由ではないのか。
確かにおっしゃる通りなんですが、陸運局でスイスイの御仁も修理工さんもいれば、自動車ディーラーのお兄さんもいれば、いろいろ。陸運行政の規制緩和などを論じる学者さんが行ってみると、先生と同じであたふたするやも。
だから、彼がこの世界に精通してないかというと、それどころか・・・っていう場面もあったり。
意味論というか、微妙なところですね。
ふと私病でクロロキン薬害を上手に逃れた厚生官僚と、水俣病関係で自裁したキャリアを思い出しました。
投稿情報: Boo Bam | 2011/08/12 08:45