温暖化問題を問題ではないと主張する池田先生が将来のエネルギー供給源について考察していたら、、、地震が来てしまって急きょ再構成された本である、、、と思う。前半と後半ではずいぶん文体が違うというのもその理由だが、特に後半の情報量はものすごく、いくら天才の池田先生でも311以降にこれを全部書くのは無理だろうと想像するからである。
池田先生のように温暖化問題そのものを否定する識者は多いが(僕の身近にもいるが)、池田先生の語り口が他の論客と大きく異なるのは、ある方法論が絶対的に是であるとか否であるという言い方をしないところにある。原発推進派が原発を絶対安全と主張し、原発反対派が原発を絶対に危険だと主張し、、、両者の「語り口」が原発の安全設計を困難にしたのだと池田先生は主張する。僕も全く同意見だ。そして、ある問題の解決策は複数用意しておいたほうが良い、、、、一つの意見に固執しないほうがよいというのも生物学のエキスパートである池田先生らしいご意見で、臨床医の僕もそれに同意である。臨床医は(少なくともまともな臨床医は)「手術絶対主義」とか「服薬絶対主義」みたいな一方法論への過度の依存を主張しないからである。ある方法論(例えば治療法)を過度に褒めたり、貶したりする輩の言葉は話半分に聞いておいたほうが良い(literally. たぶん、半分くらいは正しいことを言っていると思うし)。
原発は、確かに統計学的には安全性の高いエネルギー供給源である。リスクはlikelihood とconsequenceの二側面で吟味する。原発事故は、交通事故に比べればlikelihoodは非常に低い。しかし、consequenceは比べ物にならないくらい大きく、それは空間的に、時間的にそうである(広範囲な被害、未来何十年あるいはそれ以上におよぶ被害)。リスクのlikelihoodとconsequenceは分けて考えなければならないが、ごちゃごちゃにされていることが多い。
というわけで、原発のリスクは311以降の日本人が易々と許容できるような軽いリスクではない。likelihoodが低くても、consequenceが大きすぎるのだ。
ただし、原発の即座の放棄も池田先生は主張しない。我々が享受しているエネルギーをたっぷり使う生活をすぐには放棄できないからである。我々は急に貧しかった昭和30年くらいにはもうとても戻れない。というか、そこに戻ったら安全リスクはとても高く、腐った食物による食中毒、エアコンがないための熱射病、暖房がないための寒冷曝露、各種感染症など「電気がない故の」様々な健康リスクにさらされてしまうだろう(そういうのは、昭和30年くらいには「日常的」だったのである)。安全を理由に原発を放棄してこれでは、これでは本末転倒だ。
したがって、このジレンマを解決するために現行の原発はゆるやかに動かしつつ、新しい原発は建設せず、時間稼ぎをしながらあらたなエネルギー源を模索しなければならない。
池田先生はCO2が増加してもそれが大きな問題にはならないと主張されているから、石油や石炭のような化石燃料の使用は否定しない。ただし、これらの資源には限りがあり、石油は数十年後には、石炭だっていずれは枯渇してしまう。石油や石炭に頼っていたら、僕らの子どもや孫にはエネルギーを使った生活は提供できなくなる。
かといって、現行の風力、太陽光、燃料電池などのオルタナティブは技術的な問題やコストの問題があってすぐには主流のエネルギー源にはなりえない。したがって、これらを有効活用しようと思えば「イノベーション」が必要になる。
かつて民主党政権は未来の世代に借金を残さないために「仕分け」をやった。今度は未来の世代にエネルギーのない生活を提供しないために、イノベーションを促す政策を採る必要がある。まあ、僕らの周りにはまだまだ無駄が多いので、事業仕分けそのものを僕は否定しないけれど、それはそれとして。
イノベーションにはブレイクスルーが必要だが、どの領域にブレイクスルーが起きるかは誰にも予見できない(もしできるのなら、そういうものはブレイクスルーとは呼ばない)。したがって、このようなイノベーションのネタには複数「はっておく」ことが大切になる。いろいろなエネルギー源について可能性を追求し、その将来性を吟味し、より「使える」ツールになるためのイノベーションを奨励するのである。それが、我が国のエネルギー源に未来を得るための最良の策であろうと池田先生はおっしゃるのである。「多様な代替エネルギー」である。
本書は、僕らの未来の世代が惨めな世代にならないことを希求する人(僕は本気でそう思っているが)にはとても刺激的な本である。
ときに、震災復興にはお金が要る。エネルギー開発、イノベーションにもお金が要る。お金の出所も「多様」であるほうがよいが、税金もその一つだ。少なくとも税金なし、というオプションはなかろう。
僕の思いつきだけど、電力税というのはどうだろう。消費した電力に応じて一定の税を課す。電力を使えば、復興の原資となり、それを嫌って電力使用を避ければ節電になる。一石二鳥だ。これなら周波数の違いから電力を東日本に供給できない西日本でも役に立てる。
もう一つ、思いつきで提案したいのが、原発の安全対策の権利と責任を地域に一部委譲することである。結局、原発のリスクは原発建設地周辺にある。しかし、原発の安全対策は国と電力会社任せであり、都道府県など自治体にはほとんど発言権がない(ように思う)。自治体に十分な情報公開をすることと引き換えに、どこまでの安全対策をとるか、その選択も自治体にある程度任せてはどうか。徹底的な安全対策にはコストもかかるから、そのコストの一部も自治体に肩代わりしてもらう。自分の安全のことだから、どこまで安全にお金を出して津波や地震の対策をとるか、みな真剣に考えるだろう。そして、そのリスクがどうしても許容できない場合は、そこに原発は存在できなくなる。
結局、原発の安全対策を「原発に問題が起きても痛くもかゆくもない」人たちが立案したところに安全対策のねじれ現象がある。これではコストをかけるインセンティブは生じない。しかし、ステークホルダーである地元であれば、自らがそのリスクの甘受社であるものであれば、それができる。それも常識範囲内でできる(あまりコストのかかる安全対策は、やはり地元にとって苦痛であるから、受け入れられないからである)。僕は2009年のインフル騒ぎの時に、とにかく中央から権利と責任を地域に移行すべきと何度も行っていたけど、原発も同じだと思う。もちろん、地元にとってそれは痛みを伴う決断なのだけど、自分で決めたことであれば、ハザードに対する許容度は大きい。他人が勝手に決めたことで被害に巻き込まれるよりは、ずっとましではないだろうか。
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