広瀬和生さんの落語評論批判である。162ページを引用する。
2010年、僕は週刊誌の取材で小三治にインタビューする機会を得たが、その際、話題が落語評論に及ぶと、彼はこう断じた。
「みんな評論のための評論であって、正論ではない。評論家として認められるための文章を書くから、えてしてヤケクソのことを書いて、注目されようとする。それは評論家じゃなくて、芸人です。評論家で、ちゃんとしたことを言える人は誰もいない」
中略
評論のための評論。認められるための文章。そういったものは、読者のために書かれているのではなく、評論家自身のために書かれている。そんなものが正論であるはずが無い。
落語の評論は、落語を愛するがゆえに、やむにやまれぬ情熱をもって、「落語のために」書かれるものでなくてはいけない。
「愛するがゆえに、やむにやまれぬ情熱をもって」の一言にとても共感する。あと、広瀬さんは「自分の言葉」をもっている落語家を高く評価する。これは医師についても同じである。「他人の言葉」を自分の言葉と勘違いしていることは、とても多いのである。
既存の落語評論への小気味よい批判はよく込められていたが、では、本来の落語評論はなにかというと、談志の言葉に仮託しておしまい、、、というのがちょっと「うーん」であった。談志の言葉に出来ないところをどこまで言葉にするかが、「評論家」の大事な努めという気もする。もちろん、目の前の山があまりにも高いので、それは巨大な難事であろうが。
2010年、僕は週刊誌の取材で小三治にインタビューする機会を得たが、その際、話題が落語評論に及ぶと、彼はこう断じた。
「みんな評論のための評論であって、正論ではない。評論家として認められるための文章を書くから、えてしてヤケクソのことを書いて、注目されようとする。それは評論家じゃなくて、芸人です。評論家で、ちゃんとしたことを言える人は誰もいない」
中略
評論のための評論。認められるための文章。そういったものは、読者のために書かれているのではなく、評論家自身のために書かれている。そんなものが正論であるはずが無い。
落語の評論は、落語を愛するがゆえに、やむにやまれぬ情熱をもって、「落語のために」書かれるものでなくてはいけない。
「愛するがゆえに、やむにやまれぬ情熱をもって」の一言にとても共感する。あと、広瀬さんは「自分の言葉」をもっている落語家を高く評価する。これは医師についても同じである。「他人の言葉」を自分の言葉と勘違いしていることは、とても多いのである。
既存の落語評論への小気味よい批判はよく込められていたが、では、本来の落語評論はなにかというと、談志の言葉に仮託しておしまい、、、というのがちょっと「うーん」であった。談志の言葉に出来ないところをどこまで言葉にするかが、「評論家」の大事な努めという気もする。もちろん、目の前の山があまりにも高いので、それは巨大な難事であろうが。
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