伝統あるFAカップの準決勝はあろうことか、マンチェスター・ダービーだった。この時期のイギリスって本当に美しくて良いですね。
結果は残念ながらシティーの勝ち。ユナイテッドはいいところなしだった。最初の攻勢こそ見事だったが、つまらないミス、つまらない反則(スコールズってこういうとき「かまし」ちゃうんだよなあ)。空回りする展開で、完敗である。後半、相手チームのミスから得点したシティーは効率の良いカウンタアタックで最後までユナイテッドに決定機を与えなかった。
まあ、こういう日もある。たぶん、ユナイテッドはチェルシー戦にメンタリティーのピークをもっていったのだと思う。体力的にはまだ戦えると思うが(それでもしんどいでしょうが)、それよりも山を越えた安堵感の中で戦う気持ちを維持することができなくなっていたように思う。ちょうど、2002年にトルコと戦った日本のように。ユナイテッドのような百戦錬磨のチームですら、メンタルを高く維持するのはとても困難なことなのだ。
話は全然変わるが、4月になって、被災者の疲労はもちろん、支援者のメンタルなピークもおちてきているように思う。普段ならやらない思わぬ失敗、ケガもかいま見られている。これは本当に長期戦なので、ほどよくまったり、のんびりすることも、適度に弛緩することも大切だ。
というわけで、話を(弛緩した)サッカーの話に戻す。ユナイテッドが負けたのは残念だが、シティーが勝ったのはわりとうれしい。僕がマンチェスターにいた1991年の下宿先のすぐ近くは、いまはなきメインロードだった。ピーター・リードがプレイング・マネジャーやってて、長身のナイエル・クインにロング・ボールぶつけるだけ、という実に当時のイングランドらしいチームだった。イングランドのチームも本当に上手になりましたね。そんなわけで、「批評家」的なサッカー・ファンなら眉をひそめるような「つまらないサッカー」をしていたシティーであるが、ファンの義侠心には心を熱くさせるものがあった。どんなに不遇をかこっていても、街の「もうひとつ」のチームに人気、実力ともに負けていても、俺たちだけはついている。なんか、こういう義侠心に僕は弱いのである。イングランドでは、4部に落ちても離れずついているダイハードなサポーターは各地に多い。
そんなわけで、たいていのユナイテッドファンはシティーを毛嫌いするし、またその逆も真なのだけど、僕はどちらのチームも好きである。ついでにいうと、リバプールも好きだし、アーセナルも好きだし、スパーズもガスコインのころ、、、いや、アルディレスやホドルのころから好感を持って観ている(だんだんあきれている人が増えてきたような、、、)。チェルシーにはあまりシンパシーを感じていないが、モウリーニョは尊敬する。そのモウリーニョの対極を行くサッカーをするバルサ=ペップももちろん好きである。
すれっからしの「欧州通」は僕のような観戦を「間違っている」と呼ぶかもしれない。本場では自分の支持するチーム以外は嫌う対象である。1990年にイタリア対アルゼンチンでマラドーナがあんなに嫌われたのも、ローマやミラノやトリノにいるサポーターがナポリを毛嫌いしたからだ。ユナイテッドファンはたいていアーセナルが嫌いで、リバプールも嫌いだ。それが本場のファンのあり方である、、、と。もしユナイテッドとバルサがウエンブレーで試合したら、ロンドンのファンはバルサを応援するかもしれない(ありそうな話だ)。「それが本場のサッカー・ファンですよ、それにひきかえ日本のファンは、、、」みたいなくさしかたもできるでしょう。
それはその通りかもしれないが、僕はどのチームもそれなりに好きなのだから、仕方がない。無理に他人に合わせる理由もない。日韓戦ですら、僕はもちろん日本を応援するけど、「やっぱパクチソンにはかなわないなあ」と感嘆する自分もいる。サッカーは、エンターテイメントであり、決して代理戦争であってはならない。貧困や人種や宗教や社会問題のルサンチマンをはらす場所でないほうがよい。少なくとも僕はそう思う。少なくとも、そういう観戦のあり方があってもよいと僕は思う。
そんなわけで、次も「内田がんばれ」と思いつつもユナイテッドの勝利を願うだろう、僕は。
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