昨日は亀田総合病院に行ってリスク・コミュニケーションの話をする。対話が大事、という内容でお話するのだが、1年目のナースからベテランドクターまで多種多様なオーディエンスがいるなかで、どうやってコミュニケーションの話をコミュニケートしていくのか、その二重構造を保つのはとても難しい。くたびれきったよ。朝は4時過ぎに起床して5時半のアクシー号で東京駅へ。現在、名古屋、この後神戸大学指導医講習会に直行である。アダルト・ラーニングとは名ばかりの押し付け教育にさようなら、をテーマにして、日本で一番「参加して良かった」「楽しかった」と思ってもらいた。できるだけ「疲れた」「長かった」という感想が少ない講習会にしたい。そして、「明日からがんばって研修医教えるぞ!」と皆さんに思っていただきたい。要するに、たいていの指導医講習会と真逆のことをやろうと思っている。うまくいくかな。
さて、イノベーションを続ける亀田総合病院だが、久しぶりに行ってとても刺激を受けた。常に前向きであり、新しいことに取っ組み合おうとしている。不平不満も多いが、その打開策も常に考え、見据え、取り組んでいる。こういう組織は強い組織だ。たいていの組織は横並びをしたがる。「他ではどうしてるの?」と調べて横並びである。誰もがやっているから、が物事を行うインセンティブである。亀田では「まだどこもやっていません」「誰もやっていません」がものごとを行うインセンティブである。立っている場所は同じ日本。医療過疎の高齢社会である。しかし、見ている目線が全然違うのである。
高齢化が進み、内需が落ち込み、国内でものが売れない日本である。貿易黒字はどこかの国の国際になって長期発酵熟成状態である。ちなみに発酵と腐敗は同じ現象で、単に恣意性がもたらす解釈の違いが両者を区別している。言いたいことは分かりますね。
多くの高齢者の情報ソースは新聞とテレビだけである。新聞やテレビはスクープをニュースの最大要素とする。しかしスクープ時には何が起きているのかよく分からない。よく分からない事象にみのもんたのような人が断定口調で「けしからん」とか「こうするべきだ」とか、適当なことを言う。だんだん事態が明らかになり、問題の本質がつまびらかになってくるころには、新聞もテレビも全然その話題は取り上げなくなる。彼らにとって、「よく分からないスクープ」と「よく分かったあの時の問題」では前者にしか価値がないのである。そういうほとんどノイズみたいな情報を垂れ流す新聞・テレビ「だけ」を情報源としているのが日本の多くの高齢者なのだ。彼らに、どのようなリテラシーを期待し、そこにメッセージを込めたら良いのか。これは医療者にとって非常に頭の痛い大問題である。
その高齢者は、それは旅行にも行くだろうし、あこがれのフェアレディZを買うかもしれない。しかし、おおむね退職後の高齢者の財布のヒモはきつい。内需が冷え込むのは高齢社会のせいだとする「デフレの正体」の論旨の、その部分は的を得ていると僕は思う。
さて、就職難、デフレ、内需の縮小、高齢化とは真逆なことが医療や福祉の世界では起きている。人が足りない。顧客(ここでは便宜的にこう呼ぶが、大した意味はない)が多いし、増え続けるのは確実である。需給関係がたいていの国内産業と真逆になっているのである。
したがって、かつて公共事業にお金をかけて雇用を創り、景気を底上げしたように、医療・福祉を景気回復の手段として人と金をつぎ込めば良いという発想がでてくる。また、医療・福祉関係の教育にリソースを費やすという(これまた沈滞している)学校教育にも活力を与えることができるかもしれない。しかし、今の硬直的な診療体制と診療報酬では、そのような活気のあるマーケットの創出は困難であると僕は思う。素人ながら。
オランダでは、国民皆保険と民間医療保険への移行は矛盾した概念ではない。あの国は興味深くて、対立軸に第三の道、これを人はイノベーションと呼ぶが、を用いて対立軸ではなくしてしまう。コンサルタントとコンサルティーの見解がかみ合わないとき、僕らは「患者さんがよくなることを目指す」という共通の目標に立ち返る。そこでは両者は対立しえないからだ。そして、問い直す。患者さんがよくなるとはどういうことか。そのためには僕らはどうしたらよいのか?問いの建て直しがテクニカルな対立構造を回避するのに有効なことは多い。で、オランダでは民間医療保険のどれかに国民が加入することを義務づけている。医療から取りこぼされる人は皆無であるが、選択肢は残されているというわけだ。ビジネスクラスかエコノミーかは選択できるが、目的地も到着時間も変わりはない。硬直的であったNHS(英国)とはそこが違う。その証拠に患者満足度が先進国で最も高いのはオランダである。
オランダの仕組みを日本にそのまま輸入することは困難である。そういう主張がしたいわけではない。しかし、国民皆保険制度と選択肢のある医療保険制度は必ずしも対立しない、という一点は日本でも議論してよいと思う。議論しないで思考停止してはいけないのだが、日本の多くの論者は立場をつくり、派閥を作り、命題を観念から打ち立ててそこから一歩も動こうとしない。
そんなわけで、僕は(そういう文脈をふまえたうえでの)一種の混合診療しかないと思っている。医療にはもっともっとフレキシビリティーが必要だ。このことに強固に反対する人たちが多いのも知っているけど、混合診療=患者の不利益と決めつけず、患者の利益を最大限にするために混合診療は何ができるか?という命題の立て方をすべきなのである。
冷静に考えてみれば、今だって所得によって「平等な」医療は提供できていない。高額所得者は高価な降圧薬を嬉々として処方してもらい、低所得者は「もっと安いくすりにしてほしい」という。医療にお金を使いたくないヒトに、無理やり高い検査や高価な新薬を押し付けるのは、医療者のエゴである(こともある)。(そういう意味では、DPCのほうが相手の所得と比較的関係なく医療の内容が決まるのでより平等的なのですね、、、入院期間は別にして)。検査も入院期間も同様である。完全に平等な医療は日本で達成できているわけではないのだ。
マクロ経済も医療経済も素人なのであくまで「街場の」意見なのだけど。対話は続けたいので、異論・反論はむろん歓迎します。
国民皆保険と選択肢のある医療制度は必ずしも対立しない、という先生のご意見には、医療者としては賛成です。
ただ、私はメンタル系の持病があって、持病OKのがん保険にも入れてもらえない患者でもありますが、
・民間の健康保険が導入されたら、保険から本当に溢れないのか?
・病気であまり稼げないのに、ハイリスク群として高い保険料や医療費をとられ、持病の通院も満足にできなくなりはしないか?
という思いが(あくまで感情論でしょうが)どうしても残ってしまいます。
先生ほどのお立場なら、私のような立場の人間をも一歩踏み出させるような言葉をお持ちだと思うのですが。
投稿情報: おいかわ たくみ | 2011/02/25 14:40