河瀬直美監督のドキュメンタリー「玄牝(げんぴん)」を観た。自然分娩を推奨する愛知県岡崎の吉村医院での妊婦さんたちを撮っている。
作品の質については素人がどうこう言えることはない。あくまで個人的な見解だが、どうも映画にはのめり込めなかった。
理由1。やっぱ僕自身が医者なので、医療を撮ったドキュメンタリーに「照れ」が生じてしまう。ドキュメンタリーは一種のフィクションなので、医療現場にいる人のセリフも「カメラを前にした」セリフである。そこには一言のウソもない。ウソはないのだけれど、「うーん」とうなってしまうような、何か違和感がある。僕が「House」のような例外を別にして、フィクション、ノンフィクションにかかわらず医療系にどうしてもうまく感情移入できないのも、この自分の「照れ」が原因となっている。それに、島根の田舎育ちの僕としては、生命のメタファーとして使用された木々とか、茅葺き屋根の家とか、カマキリなどの昆虫とかは、リアルな存在であり、形而上的に捕らえにくいところがある。ここにもさらに含羞を感じてしまう。自然の情景を映像に流して生命とは、みたいなメタファーに使用されると、実生活でそれを体感している身としては、なんとなくあちこちが痒い、、、気分になるのだ。欧米など外国に観てもらう分にはとても効果的と思うが。効果的といえば、リアルな出産風景も慣れていない観衆にはすごくショッキングだったかも知れない。
理由2.非常に巧みに多義性を尊重している映画ではあるが、そうはいっても、自然分娩の優位性は映画の中で揺るがない。帝王切開を選択した女性も「これでよかった」と言っているが、「本当はだめだった出産にもかかわらずその子を愛する」という「逆境感」はにじみ出ており、「帝王切開では母も子も幸せになれない」みたいなimageは残像として残る。僕の個人的な解釈だが、日本でもアメリカでも産科領域では(皆がその業務にとても熱心な結果だと思うのだが)とてもその仕事に「入れ込んでいる」人が多い。無痛分娩を推奨する人もいれば、それを絶対否定し「痛みを感じなければ母ではない」みたいなひともいる。母乳で育てなければ育児でないみたいな主張にも強い違和感を感じる(もちろん、母乳がだめと言っているわけでもない)。自宅での分娩を絶対視する人もいれば、帝王切開を(この映画で描写されているように)悪の象徴みたいに考える人もいる。僕は基本的に「いろいろな考え方や選択肢があった方がいい」と考えるほうである。自宅分娩も経膣分娩ももちろんけっこうであるが、「そうでなければ幸せになれない」みたいな空気には強い違和感を覚える。誠に申し訳ないのだけれど、吉村医院に通院する妊婦さんの映像のその「確信した」まなざしを怖く思う。自分が正しい道を歩んでいるという確信を抱いた強いまなざし。僕は、医療の現場はもっとはにかんだり悩んだりしている情景の方がその本質に近いと思うし、毎日は実に悩みの連続である。これが正しいという確信をもった医療にはやや危ういものを覚えてしまう。中にいらっしゃる妊婦さんにはなんの罪もないし、そのような苦しみを抱えている方にはそういう選択肢はありだと思うが。ただ、「こういうやり方でないとだめ。他の選択肢は苦痛だけ」という追いつめられた状態を、自由のない状態を幸せと呼んで良いのかどうか、、、僕にはちょっと疑問である。あと、吉村先生は日本の産科の先生は金もうけを考えるからあれこれやる、、、と何度かおっしゃっているが、少なくとも僕の知る限り、「金もうけ」を一意的な目的に産科の先生をしている人はいない(金のことを全然考えない、ということもないかもしれないが、金のことを「全然」考えない人なんてそもそもいるのだろうか?)。彼らの過剰な労働量とおかれている過大なリスクを考えれば、これくらい割のあわない金もうけのやり方はないはずだ。金が欲しければ他の仕事をしているはずです。
と、いろいろ否定的なコメントが続いて申し訳ないが、映画そのものはクオリティーの高いものだったのだと思う。深く共感する人も多いだろう。あるいは、この映画が触媒となって、いろいろ考えるチャンスになればよいとは思う。
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