僕は診療のとき、一つ一つの判断にゲーム理論(のようなもの)を取り入れている。ある決断を下したとき(例えば検査とか)その結果がどのようになってもまっとうな対応となっていること、を目指しているのだ。くだんの囚人のように。
さて、複数の医療者に「朝日新聞からの申し入れ書」が届いている。前にも書いたように、僕は喧嘩を好まないので、このような泥仕合的な経緯には好感をもてない。
朝日新聞社、医師らに抗議 東大医科研巡る記事(12/7)
http://www.asahi.com/health/clinical_study/101207_honbun.html
朝日新聞社からの申し入れ書(12/7)
http://www.asahi.com/health/clinical_study/101207_moushiire.html
さて、僕がもし朝日新聞に回答する立場であれば、以下のようにお答えするであろう。
朝日新聞様
ご丁寧なお便り、痛み入ります。以下にお問い合わせについて回答申し上げます。
私はプロの医療者として名誉というものをとても大切にしています。自分のそれも、もちろん他者の名誉も大切にします。したがって、朝日新聞というプロフェッショナルな報道媒介の名誉ももちろん尊重したいと思います。ですから、私の物言いがその名誉を傷つけるということになるとすれば、それは私の望むところではありません。
あなたがたは「「極めて『捏造』の可能性が高い」「捏造と考えられる重大な事実」などと判断するのは極めて軽率かつ不適切です」とおっしゃいました。確かに、記事に捏造がないとしたらこの言説は軽率かつ不適切かもしれません。私はプロの医療者として自らの過ちがあれば率直に認め、謝罪するのが正しいあり方だと常々考えております。おそらくはあなたがたもまったく同じ思いであろうと拝察いたします。
ですから、ぜひぜひお願いしたいのですが、「捏造」という私の言説が軽率かつ不適切であることを、根拠をもって具体的にお示しいただきたく存じます。確たる根拠があり、「捏造」という事実がないことが私の目に明らかになりましたら、自らの不明を恥じ入るとともに深く陳謝し、前言を撤回いたします。ただし、撤回するのは「捏造」の部分だけで、それ以外の部分についてはあなたがたから具体的な否定も反駁もありませんし、いまだバリッドな内容と存じますから、その主張はそのまま残したいと思います。
さて、このようなことはないと思いますが、万が一あなたがたが「捏造ではない根拠」を具体的にお示しいただけない場合、その場合は皮肉にも「捏造」の疑惑は高まりこそすれ、少なくとも消失することは理論的にあり得ません。当事者が「確たる事実です」と主張するだけでは確たる事実とは一般社会では認められないことは、プロの報道者たるあなた方であれば当然ご存知のことでしょう。その場合は「捏造」という言葉を使うことが軽率とも不適切とも言いがたいことも、またそれを撤回する理論的な根拠もないことは、容易に即座にご理解いただけることと存じます。
私の希望しているのは、医療におけるまっとうな信頼関係の構築です。医療者と患者、医療者とジャーナリストたちがまっとうな形での信頼関係を築き、維持し、そして向上していくことこそが日本の医療を改善していく最良の、ほとんど唯一の方法かと存じます。もちろん、この点について皆様にも異存はないでしょう。些末な周辺時ではなく、この趣旨、本旨に則り、皆様の真摯な対応を切に希望します。
追記 皆様は「大学関係者は各大学とも多数います」とおっしゃいます。私は科学の世界に身を置くので、言葉をとても大切にします(あなた方ももちろん、そうでしょう)。「多数」とはどのくらいの数でしょうか。何を根拠にその数が「多」と判断されるのでしょう。また、そもそも取材源が多いか少ないかという「多寡の問題」がその言説の正当性をどこまで担保するというのでしょう。「みんながそう言っている」ことが正しさの根拠とならないことは、我々の世界では常識であり、また多くの社会でもそうだと考えます。
今回の朝日新聞報道についての先生の行動について興味深く読ませていただいています。
新聞社、テレビによる報道に対してフィードバックをかける方法を模索する姿勢は大変勉強になります。
ただ、残念ながら現在のところそのアプローチは奏功していないようです。
だからと言って先生方のアプローチが誤っているとは私は考えません。
朝日新聞側としては
「事実を積み上げて語っているのだから自分たちは誤っていない。ねつ造というのは名誉棄損ではないか」という姿勢であり、
医療者側は
「直接の責任者でない人間の名前を執拗に新聞に掲載するのは記事として妥当とは考えられない。また医学的には妥当と考えにくい不特定の関係者の証言を載せて、特定の団体を攻撃してもよいのか」というねじれたやりとりになっています。
新聞社側の見解はミクロの視点からは誤っていると立証できないわけですが、それが社会・個人に対してどのような影響を与えるかという点について無頓着です。
論点の一致から図るべきなのでしょうが、同じテーブルに座らない限り、解決は難しいように思います。
双方の対話で解決できる問題でしょうが、対話という文化を問題解決の手段として利用できるかどうか、現時点で私は悲観的です。
長年にわたり報道側に刷り込まれてきた「報道の自由」、「説明責任」、「取材源の秘匿」などの金科玉条のような言葉がありますが、それらの言葉について情報の消費者は慎重になるべきではないでしょうか。
「説明責任」については誤用が氾濫し、「取材源の秘匿」は法律上認められたものと言えないため田原総一朗氏の一件が裁判で論点となっています。医師の守秘義務は法律上の問題であり、同列に論じるのは違和感があります。
医療従事者さんの視点ももっともだとは思いますが、「それを言っちゃあ、おしまいよ」とか「それを言い出したら捏造しほうだいだよね」とも思ったので追記させてもらいます。
投稿情報: かけだし内科医 | 2010/12/11 13:51
私の記憶違いでなければ、この件は、Captivation Networkの記者会見(動画で公開されています)の後の、質問の時間に決着がついていたはずです。
Captivation Networkが調査を行ったが、取材を受けたと申し出た人はいなかったというはなし以上でも以下でもないこと、取材を受けていても申し出ない可能性が原理的にはありうることを、Captivation Networkの方が、別の新聞社の記者さんとの間でなごやかにはなされていたと思います。
普通に考えて、このような調査をもとに記事を「捏造」というのは、到底無理です。(調査を行うこと事態は、それはそれでアリかな、と思いますが。)
新聞社なのですから、「捏造」と批判されれば当然反論するはずです。また、当然ですが、読者として、これはこの件に限らず一般論としてですけれども、そうしてもらわないと困ります。ちなみに、「捏造」という主張を行った場合、その証明責任は当然ですが、「捏造」という主張を行った側にあります。
「捏造」などということばを使わずとも、議論は可能なはずです。
投稿情報: karara | 2010/12/10 17:36
ジャーナリストの情報源の秘匿についてはどう考えているのですか?
このように捏造の疑惑を吹っかけられるごとに情報源を公開していたら、誰も情報源にはなってくれなくなるでしょう。
医療従事者における、患者情報の保護(守秘義務)と同じくらい守られるべきものじゃありませんか?
捏造の疑惑があると吹っかけておいて、情報源を公開させるやり方はジャーナリスト相手には有効ではないでしょうし、公開しなかったからといって捏造の疑惑の可能性が高くなるものではないでしょう。
少なくとも現時点で、捏造の確固たる証拠を内部調査でしか示せていない以上、現状では捏造の点において取り下げる方がいいのではないでしょうか?
訴えられるリスクを冒してまで、本筋ではないそこに固執する理由がありますか?
売り言葉に買い言葉で「捏造」と言ったのならば、信頼関係構築のためにまずそこから手を引いて大人な対応を見せる事の方がより有効な手だてでは無いでしょうか?
投稿情報: 医療従事者 | 2010/12/10 14:21