PISAの結果について報道されている。日本の新聞は日本についてしか語らない。なぜ、上海の成績が急に良くなったのかもさっぱり分からない。日本はよくなった、しかしまだまだだ、、みたいな論調が多い。「あらたにす」をみると、日経、読売の社説は非常に定型的で、まあ、非常に凡庸な内容である。この社説を書いている論説委員たちの「考える力」を涵養することが最優先課題なのではと思う(こんなこと書くとまた名誉毀損とか言われるかなあ)。朝日の社説も多分に定型的であるが、まだましである。僕は読んでいないが、茂木さんのツイッターによると朝日の第二社会面はとてもよかったらしい。
http://twitter.com/kenichiromogi/statuses/12650123196628992
国際学力調査、英米の関心は低いという今朝の朝日新聞第二社会面の記事は秀逸。点数とか順位に一喜一憂すること自体がその国の知的レベルの低さを表す。アジア諸国は熱心なのだそうです。
NYタイムズを読むと、アメリカ人は少なくとも全然無関心ということはなく、自国の成績の悪さを問題視していることが分かる。ただ、こちらのほうが「なぜ上海の成績が良かったか」はよく理解できる。アメリカの新聞を読むとなぞが解け、日本の新聞を読むとなぞが深まる。
http://www.nytimes.com/2010/12/07/education/07education.html?_r=1&scp=1&sq=PISA&st=cse
僕は受験戦争時代の受験生なので、「急に成績を良くする」ためにはどうしたらよいか、よく理解する。何かを急にゲインするためには何かを失わなければならない。例えば、上海の生徒はアメリカのそれに比べて音楽とか運動に費やす時間が少ないと指摘されている。PISAの成績は評価の一つの側面ではあるが、すべてではない。あるものを得ようとすると、とくに急に得ようとすると当然失うものもある。
フィンランドは長くPISAで1位を得ていたが、それは結果であって目的ではない。フィンランドはPISA一位を目指して教育してきた訳ではない。今回の結果が出てもかの国の教育方針はびくともしないだろう。あのスコアで一喜一憂している日本の教育関係者っていったいなんなんだろう。フィンランドから学ぶとすれば教師の自律性である。教師が考える力を持たなくて、どうして生徒に考える力がつくだろう。教師に考えさせるということは、できるだけ文科省が教育現場に自律を与えることを意味する。つまり、文科省はできるだけ何もしない方がよいのである。PISAのスコアは(厳密にいうと順位は)少しは落ちるかもしれないが、そこはそもそも目指すところではないのである。
そんなわけで、僕は内田樹さんの見解に100%(またしても)賛成である。
http://blog.tatsuru.com/2010/12/09_1146.php
特に以下の文章に猛烈に共感を覚えるのである。
だいたい、つい先日までは多くのメディアはPISAのランキングを根拠に「フィンランドに学べ」と言っていたのではなかったか。
だったら、同じロジックで今回は「上海に学べ!」と社説に大書すべきではないのか。
けれども私が知る限り、PISAのスコアの発表の後に、「上海や韓国の成功事例に学ぼう」と呼号した社説は存在しない。
けれどもそう書かないと、これまでの議論との整合性がとれないのではないか。
「上海に学べ」と書けないのは彼らが畢竟するところ学力の優劣を「ナショナルな威信の問題」だと思っているからである。
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