注・以下に述べる「大学病院」はある特定の大学病院のことで、必ずしも全ての大学病院に当てはまるわけではありません。「うちはそんなことないよ」という方は、さらっとスルーしてください。あと、ここに出てくる「50代、60代」も全ての50代、60代に当てはまると主張しているわけではありません。「俺は違うよ」とおっしゃる方は、やはりさらっとスルーをどうぞ。
研修医のマッチングが終わったとき、必ず話題になるのが、「民間病院」と「大学病院」どっちにたくさん研修医がマッチしたかという話題である。
まったく意味のない比較である。
そもそも両者は病院数が圧倒的に違うのである。比較母体が全く違う中で、両者を比較し、その数の多寡を競う理論的な根拠を教えて欲しい。あれは、民間病院側と、(むしろこちらの方が強いであろう)大学病院側のヘゲモニー争い、「俺の方が勝った」「おまえが負けた」という世界観の表層でしかなく、実質的にはなんの意味もない。
あの「俺が勝っておまえが負けて」という発想は実に昭和的だ。今の50代、60代を支配している(そろそろその世界観から抜けちゃっている賢明な諸氏もおいでですが)メンタリティーである。右肩上がりのメンタリティーである。白髪の小児のメンタリティーである。他者に対する優位という形でしか自己の向上をメジャーできないメンタリティーである。いい加減、研修関係緒会で今年は大学病院と民間病院どっちが勝った、というグラフを示すのはやめませんか、皆さん。
そもそも、数をそろえていればそれでよい、ということにはならない。むしろ大事なのは研修医の質であり、研修の質である。
データを見れば容易に理解できることであるが、質の高い研修を提供していると目される病院はその臨床規模が大学病院クラス(あるいはそれ以上)であっても、採用する研修医数は圧倒的に大学病院より少ないことがほとんどである。
では、大学病院はそのような病院をはるかに上回るような卒後教育上のリソースを持っているか。もちろん、答えはノーだ。質的にも量的にも、大学病院が初期研修医に提供できる教育リソースは、少なくとも良質な民間病院よりも圧倒的に劣る。
大学病院はダウンサイジングをしなければならない。初期研修医の採用数を減らさねばならない。そのリソースに見合っただけの研修医を採用し、彼らにもっと質の高い教育を提供しなければならない。数を稼ぐという「昭和的な」発想はそろそろ捨てるべきだ。
大学病院では指導医が足りないから、医局にスタッフを引き上げる。これが地域医療を荒廃させていると指摘させて久しい。研修医の採用数を減らせば、身の丈にあった教育が提供でき、その分、「引き上げねばならない」スタッフも減る。
もともと、大学病院における研修医は体のいい「雑用係」であった。雑用に教育的な意味があるかという問いはここでは議論しない(何をもって雑用とするかもここでは議論しない)。「教育をさせる」という意図ではなく、「雑用をさせるための人足」として研修医を見なしていたことそのものが問題なのだ。
ダウンサイズした研修医がもたらす「必要なマンパワーの枯渇」は他の医療職(クラークやナースエイドのような)を充填させれば良い。足りない分だけ補うのだから、「研修医がどこまで雑用をするか」という観念的な議論は消失する。指導医の消耗も減る。地域からの引き上げも減る。大学病院が小さなプライドを捨てて、ダウンサイジングという「非昭和的」価値観を受け入れれればよいだけの話だ。そもそも、雑用そのものも減らしていかねばならない。「コンプライアンス」「コンプライアンス」と手続きばかり気にしているとどんどん手続き的負担,burdenが増えていく。しかし、よくよく注意していくと、減らせるもの、減らすべきものはたくさんある。
初期研修医を後期研修医(ニアリーイコール医局員)への予備軍と見なしており、彼らの供給を減らしてはならぬ、という意見もある。しかしこれも物量的、右肩上がり的な昭和の発想である。疲弊し、消耗し、絶望した指導医を目の当たりに見て研修医がその医局の門をたたきたいと思うだろうか(そういうMな人ももちろんいますが)。そして、そのようなクールでニヒルな初期研修医の立ち居振る舞いを見ていて、学生は「ここに残りたい」と希求するだろうか。「数」はすでにチャーム(魅力)ではないのである。
初期研修医に提供すべきは優れた指導医である。活き活きとしたロールモデル、「俺もいつかはこんなになりたい」というロールモデルである。そのモデルを目指してがんばる研修医に学生はあこがれる。屋根瓦とは下方的な教育システムとして認識されがちだが、この「あんなふうになりたい」というあこがれの情は、一種の上方的な屋根瓦である。
「こんなところにはさすがに入りたくない」と学生や研修医に思わせてはだめなのである。
「こんなところ」かどうかは、医療機能評価も、そのエピゴーネンたる臨床研修何たらも教えてはくれない。そこにはメジャラブルな要素は全くなく、そして彼らはメジャラブルなものしか目に留めない。
優れた研修病院は、一歩足を踏み入れただけで、「ああ、ここは研修医にとって幸せな病院だな」と分かる。もちろん、分かる。そのくらいの感性がなくて指導医やってられるか。メジャラブルなものに拘泥するということは、要するに「おれはよい研修も良い研修医も察知する身体能力を持っていません」とカミングアウトするようなものである。異性に惚れるときにスコアリングシステムを使って相手を選ぶバカがどこにいる。
そのような「一歩足を踏み入れただけで分かるよい研修病院」を目指して、毎日どろどろぐずぐず現実のヌカルミをもがくのである。脚は泥水に突っ込んでいるが、決してまなざしを下げてはならないのである。見つめるのは常に夜空の星だからである。
こんなことを「沈む日本を愛せますか?」のダウンサイジングの議論を読んでいて思ったのだった。ああ、そうか。高橋源一郎さんとか内田樹さんとか、60年代のエートスを正当に継承している人たちもいるのだから、テレビの政局や新聞の社説を見て、50代、60代に絶望するのはまだ早いのですね。
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