歴史の流れとは、おそらくは偶発的なものでありマルクスの言うような「必然的な」流れがあるわけではないと僕は思う(ただし、時間が作る歴史の「正体」は僕にはさっぱり分からないが)。
近代日本は、あくまで「後付けの」説明ではあるが、「ヒステリズム」の克服であったのではないか。と思う。日本とアメリカはヒステリックである、という点でよく似ている国であるが後者はまだこれを克服していない。しかし、日本は確実にヒステリズムの病魔から抜け出しつつある。小児から大人への成熟だと言い換えても良い。もっとも、これも後ろを振り返るとそう見える、という程度の意味なのでそこに歴史の必然とかのにおいを読み取るのはよくないのかもしれないが。
幕末の日本はおそらくはとてもヒステリックな時代だったのだろう。ちょっとした言動や出自で斬り殺されることは当時の日本なんかではよくあった話で、井伊直弼や佐久間象山、坂本龍馬らは実際そうやって殺されている。
関東大震災、日露戦争、日中戦争から太平洋戦争にかけて、このヒステリズムは蔓延していた。やはり世の中の空気であったのだろうと思う。
戦後、日本はその支配国にいわば去勢されたのだが、それでもそのヒステリズムは抜けていなかった。僕ら以前の時代だとそれは安保反対であったり学生運動だったりし、僕らの時代だと、それは例えば「受験戦争」という名前で発露した。
ヒステリズムはインターネット上でも発揮され、それは2chとかでの暴論となる。しかし、このころから逆説的に、そのインターネットそのものがヒステリズムを緩和するよい媒介になってきた。2chのヒステリーに同調する人はむしろマイノリティーなのである。メディアの流す情報が一面的な事実ではないことは多くの人が頭では理解していただろうが、それが体感されたのはインターネットがマスメディアを相対化したからである。これは、ソシュールやレヴィ・ストロースやデリダが相対化するよりもずっとパワフルで説得力のある相対化だった。
1990年代までは日本の感染症界は「日本が絶対正しい派」と「なんでもアメリカが正しい派」のヘゲモニー争いだった。それは時と共に前者が後者に取って代わられる図式であったが、そのアメリカが実はろくな感染症診療をやっていないということ(ガイドライン上の建前と本音の解離)もだんだん分かってきて価値は相対化されてきた。
医療や教育では絶対的な無謬が常識であったが、両者は白旗あげてカミングアウト、自分たちは万能の神ではないことを現在必死にアピールしている。おそらくは司法と行政がこれに続くであろう(そう願っている)。後ろ向きに見ると、確実に今の日本人は成熟しているのであり、ここ数年それが顕著なのはインターネットのおかげであると僕は思っている。そしてそのインターネットの一番パワフルな部分を活用して情報発信したのが内田樹さんであり、その発信される情報は5年くらい前までは一部の「ファン」の間でしか共有されていなかった。が、日本辺境論前後くらいからそれが普遍的に伝わり、共有されるようになっている。と僕は思っている。内田さんにみんなが追いついてきた、と思うのはそのためである。
医療の世界で用いられている言語は圧倒的に日本語と英語で、わずかに昔の世代のドイツ語や精神医学系のフランス語が生きているくらいである(揶揄しているわけではない。ドイツ語やフランス語で本が読めたらどんなに良いだろうとうらやましく思う)。多くの国では医学は英語オンリーで学ぶ。そのことが日本人医師の英語力の低さと関係しているとは思う。しかし、その一方で、日本語の医学書があることのすばらしさも僕はようやく理解できるようになった。そのことは、医学を「自分の言葉」で語ることができる、ということを意味している。ハリソンとかセシルで医学を勉強する場合、それは「その世界」が医学の全てであり、その文脈の外でものを考えることができない。日本語で医学を語り、その二重世界を生きている「辺境」の僕らだからこそ、ハリソンとは異なる文脈で医学を考えたり語ることができる(もちろん、これはハリソンを読んだら、、、の話で、単に日本語の本だけ読んでいれば単に狭量になるだけなんだけど)。聖路加の岡田正人先生がむかしおっしゃっていたと記憶しているけれど、英語しか読めないアメリカ人より、日本語も英語も読める日本人のほうがよっぽど世界に開けている。そのことを僕は最近まで理解できていなかったが、ようやく腑に落ちてきた。
韓国や中国はいまだにヒステリーの空気が大きな国である。韓国は医学の勉強を英語でやるそうだ。アメリカがインターネット時代に至ってもそのヒステリーを克服できないのは、「英語しかできない」ためではないかと(すくなくともそれが遠因の一つではないかと)思う。他者の言葉に耳を傾けにくいのである(英語しかできないから狭量なのか、狭量だから英語しか学ばないのか、という因果の順序はよく分からない。たぶん、どちらも相互的に働いているように思う)。韓国の医学については僕はほとんど知識がないけれど、韓国が英語で勉強している限り、逆説的ではあるが日本のほうがずっとアドバンテージが大きい。これはグローバリストの常識とは真逆なことを言っているのだけど、長期的にはそうなると思う。日本の医学は韓国やシンガポールやタイやマレーシアやタイに遅れをとっているが、急がば回れである。絶対に日本語という医学上のツールを放棄すべきではないと僕は思う。
繰り返すが、英語ができなくても良い、と言っているわけではない。医師たるもの、英語の文献が読めるくらいは「常識」であり、できないほうが非常識である。読める、とはジャーナルクラブに向けて「翻訳できる」という意味ではなく、日常診療で活用することを意味している。日本語という逃げ道がある中でなおかつ厳しく英語を勉強するのはつらいに決まっている。しかし、他に選択肢がない中で英語を勉強するよりもそれはずっと崇高で素晴らしい努力なのだ。だから、医師は死にものぐるいで英語を勉強すべきである。
日本語で医学をやることの世界的なアドバンテージは、それが「英語もできるよ」という部分を担保することによって「のみ」確保される。単に日本語だけであれば、それは鎖国的、閉鎖的、狭量でヒステリックな態度に過ぎない。英語か、日本語か、、ではない。英語も、日本語も、、である。正邪を語らず、二項対立に陥らず、安易にアメリカの法廷ドラマみたいな「Yes or no?」と言わないことが成熟である。日本はやはり少しずつではあるが成熟しつつあるのである(少なくとも、僕らの下の世代は)。
僕の意見は、「これからは英語だ」というダイハードなグローバリストにも、「日本には日本の伝統と文化が、、、」というダイハードなナショナリストにも受け入れられないと思うけど、特に僕より上の世代の人たちにもまったく受け入れられない可能性も高いけれど、それはそれでかまわない。Time will tell. 5年後に再会したとき、この話をもう一度しましょう。
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