メディアの低形成、じゃなかった、定型性については内田樹さんがお書きになっている(単行本も出るそうです)ので、屋上屋根を重ねる必要はない。僕の言いたいこともほとんどすべてそこに集約される。
新聞とテレビはほとんど没落している。今朝もなんとなく洗濯物をたたみながらテレビをつける。上海万博開幕である。アナウンサー氏が、
「現地では過剰なくらいの厳戒態勢で警備がすすんでいます」
という。過剰な、ってどんくらいが過剰?過剰ってなにをもって過剰?なぜ過剰?
謎が解けず、むしろ謎が深まるのが日本のメディアである。
さて、昨日はあるメディアの方とお話ししていたが、久しぶりに熱くなってしまった。エイズが読者・視聴者の共感を得る病気かどうか、という議論があったためだ。
生活習慣に根ざす病気なら共感を持ちやすい、エイズはダメ、という見解はいまだにメディアに根強い。僕がHIVに入っていった1990年ころと全然変わっていない、この辺は。セックスって生活習慣そのものだろ、と思う。第一、現在の価値を未来の価値にそのまま継承して良い根拠なんてどこにあるのだ?そういう読者・視聴者のあり方そのものを問題視し、刃を首筋につきつけて問題提起しないでなんでジャーナリズムだ?と思う。最初に定型を決めておいて、そこにはめつけて物語を作る。だから、メディアは飽きられるのだ。インターネットが問題の根幹にあるのじゃない。
あれ、しまった。屋上に屋根ふこうとしてしまった。
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