昨日は名郷直樹先生のご講演。亀田総合病院時代もお願いしていたのですが、神戸でもお願いする事にしました。演題は、「人生が百度あれば」。人生いろいろ。どのような過ごし方が一番良いか。その条件をいろいろシミュレーションしてみました。「正しい医療」に揺さぶりをかける感じで、研修医や学生にインパクトを与えたのではないでしょうか。
そのあと会合がいくつかあって、なかなかに忙しい一日でした。その間、ラジオのフランス語講座をさらりと聴きます。関西のフランス人フルート奏者の方のインタビューがでていました。彼女に言わせると、日本とは二重奏の国。近代的な部分と、歴史的な部分が同居している。
そうだなあ、外国人から見るとこのような感想を持つ方が多いようです。
僕らは、普段洋服を着ていて、でも着物の美しさもちゃんと認識しています。毎日着物を着るのはちと面倒くさい。でも、たまには着たい。洋服か、着物か、という問いの立て方をせず、必要に応じて巧みに使い分けています。ま、これが関心相関というやつか。
これを、「近代日本は洋服を着なければならん。着物禁止!」とか、「日本文化を考えると着物を着なければならん。洋服禁止!」なんて窮屈な事を言うたら、それは「野暮」ということのなるのです。賢く賢く、使い分ける。こういうやり方に我々日本人は慣れている。ファンダメンタリズムのリスクを回避する知恵を持っている。
夫婦別姓の議論も、そういう風に語られるべきなのです。黒か、白かというディベートチックな議論はおこちゃま的、アメリカ的にレベルがちと低いのでした。
年度末になり、あれやこれやの忙しい時期です。ちっぽけな国立大学のちっぽけな研究科においてすら、足の引っ張り合いやら縄張り争いやらがあります。学会でもそうです。立場の違い、黒と白の違いの際だちにこだわり、大局を見ないと総倒れです。ものごとはたいてい二重奏なのに。
そもそも、自分一人では寂しいから、自分を承認してくれる他者を希求しているのです。他者を容認できないのなら、自分一人の城に引きこもってしまえばいいだけの話。だいいち、同業者の細かな見解の差異も容認できないような狭量さで、どうして明らかなる「他者」たる患者を診る事ができようか。そのようなシンプルでファンダメンタルな事も理解できない。およそ学会とか大学に、このような愚者がうろうろしている。マイケル・ジャクソンのビデオにでてくるゾンビみたいに、うろうろしている。
奪うものではなく、与えるものになりたい。立場も肩書きも手柄も名誉も、ほしければ(たとえ犬にでも)くれてやるから、くだらない足の引っ張り合いで良心や品格に泥を塗りつける真似はしたくない、しないでほしい。
「そこはおれが日向ぼっこをする場所だ」この言葉のうちに全地上における簒奪のはじまりと縮図がある。
パスカル「パンセ」
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