以下は、南江堂の「内科」に連載している「コンサルテーション・スキル」に掲載されたもの(の初稿)です。出版社の好意でブログ掲載許可をいただいたので、ここに紹介します。以下は、2009年8月号掲載のもの。
ことば、時間、そして空気
前回、研修医のパフォーマンスが悪いのは知識の欠如ではなく(それは前提で、織り込み済み)、知らないことを知らないからだ、と言う話をしました。このことをもう少し説明して、そしてなぜ、そういうことが起きているのかを掘り下げてみたいと思います。それは、おそらくは研修医の中にある「ことば、時間、そして空間」の感覚が希薄であり、それをきちんと学んでいないからなのだと思います。
最近、この3つのキーワードが診療においてもっとも大事な要素なのではないかとつくづく思っています。正直言うと、まだ、自分自身でもこのキーワード達を咀嚼しきれていないのですが、みなさんと一緒に考えてみることにしたいと思います。
なぜ、知らないことに気がつかないのか
「先生、感染性心内膜炎の患者さんですけど、今週退院したいっておっしゃっているんですよ。あと2週間点滴治療の予定でしたが、経口抗菌薬に変えて帰してもいいですか」
「感染性心内膜炎だと、経口抗菌薬はまずいな。点滴で治療を完遂した方がいいんだけど」
「でも、患者さんが帰りたいって、、、」
「で、どうして患者さんは帰りたいって言っているの?」
「それは、、、」
このような問答は研修医との間でしばしば交わされます。彼は、表面的な「患者が帰りたい」という事実を知ってはいますが、「なぜそうなのか」というところに思いが至りません。だから、「患者が帰りたいといっているんだから、標準治療ができなくったってしょうがないじゃないか」とあきらめてしまうのです。患者の希望というのは、医療の世界における錦の御旗みたいなものです。これはオールマイティーのジョーカーのような切り札で、これさえ出してしまえば、どんな偏屈な指導医だって文句は言えまい、とすらずる賢く考えることすら可能です。
患者さんが希望している、という表面的な「反駁しようもない事実」を突き詰めてしまえば、それ以上考えなくても済みます。楽になります。人間、考えることはつらいことなのです。患者さんについて考えることすら、苦痛なのです。だから、何も考えなくても話がさらっと通ってしまう状態に人は満足します。問題そのものが本質的に解決できなくても、世の中がまたいつものように流れだし、「私」に苦痛が被られなければ、そして「私」に文句が来なければ、それはそれでオッケーサインがでてしまうのです。
メリル・ストリープが主演した、重厚な映画に「ダウト」というものがあります。ケネディ大統領が暗殺された1960年代のアメリカ。カトリック学校において、ある司祭が子どもに性的な誘惑を施したのではないか、という疑いがシスターである校長(これをメリル・ストリープ演じる)にわき起こります。司祭は、問い詰めるメリル・ストリープにそんなことはしていない、と疑惑を否定します。無垢で人を信じやすい若いシスターはこれをみて「よかった、司祭は無実だった」と喜びます。しかし、メリル・ストリープは、そのような態度を取れば自分が楽になるから、真実にフタをしてしまうのだ、と若いシスターをたしなめるのでした。
この若いシスターを含め、私たちは安易に「納得しようと」します。それは、誰もがもっている甘美な誘惑なのですが、たとえ先にしんどい道が待っていたとしても、表面的な説明や「事実」と呼ばれるものに満足してはいけないのです。
ことばへの感受性を高める
「患者さんが帰りたい」
この言葉はなにも説明していません。私たちは、まだ患者さんを全然理解できていません。この時点では。
よく、患者さんに共感的な態度を取りなさい、と言われます。あれは、ウソです。共感できない患者さんは、必ずいますし、すくなくとも、唐突に「帰りたい」と言う患者さんに共感なんてできるわけがないのです。できるのは、「共感するふり」をするだけ。でも、そういうのは、本当は共感的な態度とは呼ばないのでした。
「先生、本当につらいんです」
「そうでしょうね、分かりますよ」
なんて言えば、「この先生、ほんまにわかってんのかな」と思われてしまうかもしれません。
「分かったふり」であることに自ら自覚的であればよいのですが、それがいつしか「分かったつもり」になってはいけません。病気のことが、患者のことが、医療のことが、「分かったつもり」になったとたんに、その医師の成長は止まります。「家に帰りたい」患者のことを、くだんの研修医は全然「分かっていません」。そのとき、「患者さんが希望しているから」なんてしれっと分かったつもりになってはいけないのです。
これが、ことばの感受性です。言葉の感受性を高く保たなければいけません。分からなければ、訊けばいい。「どうして唐突に帰りたい、なんて言うんですか」と理由を聞けばいい。家族の世話が必要なのかもしれないし、お金の問題かもしれないし、仕事の問題かもしれません。いずれにしても、自分が納得することばが得られるまで、「分かったつもり」になってはいけないのです。そして、問題を掘り下げていき、「ああ、なるほど。それなら確かに帰りたくなるわな」というまで掘り下げていきます。これをチャンクダウンというのでした。そして、その時初めて私たちは患者さんに共感できるのです。共感できるまでは、安易に共感(したふりを)してはいけないのは、それをしてしまうとことばが止まってしまい、本当に共感するチャンスが失われてしまうからなのですね。
ことばにおける無知の知。ことばの感受性を高く保ち、自分が知っていることと知らないことをうまく線引きする。知らないことは、全然問題ではない。でも、自分が知らない領域に対して無自覚であってはならないのです。研修医に伝えなければならないのは、知識ではなく、「知らない領域」に自覚的である感覚そのものなのです。これは極めて感覚的な問題なのです。
時間の感覚
時間の感覚も鋭敏に保つ必要があります。
「先生、患者さんが頭が痛いって言っています」
「いつから?」
「ええっと、訊いていません。でも、ボルタレン出しておきました」
これでは困ります。痛い患者さんに痛み止めを出しても、臭いものにフタをするだけでなんの問題解決になっていません。
頭痛の原因はたくさんあります。緊張性頭痛なのか、偏頭痛なのか、側頭動脈炎なのか、急性副鼻腔炎なのか、くも膜下出血なのか、緑内障発作なのか、虫歯なのか、それとも単なる二日酔なのか。原因によって当然治療は異なりますし、ボルタレンだけで流していては、かなりまずい頭痛もたくさんあります。
「いつから?」
というマジックワードで、その鑑別をかなり絞ることができます。3年前から?3日前から?それとも今朝の8時34分突然(これはまずい!)?、、、時間の感覚には鋭敏である必要があります。
検査もそうです。血液検査、心電図、画像検査、すべてその時点での異常値ばかり見ていてもだめで、「以前はどうだったか、いつからこうなったのか」が大切になります。「今の」血圧が「正常値」でも、普段の血圧が210/100mmHgだったら、それはショックなのかもしれません。時間の感覚も、研修医に教えなければならない大切な「感覚」です。これは知識ではないのです。
「先生、患者さんもいつからか覚えていないって言っています」
はい、この研修医はまだまだことばと時間の感覚が鋭敏ではありません。「患者さんも知らない」で満足してしまっている、表面的な知識でチャラにしてしまっているのです。
確かに、患者さんの多くは「覚えていません」と言ってくる。でも、それならそれで、やりようはあるのです。
「では、昨日からですか?」
「いや、そんなではない」
「10年前もありました?」
「いや、そのころはなかった、、、」
「1年前?」
「うーん、どうだっけ」
「5年前は?」
「そんなに前じゃない」
このようにこちらから「極端な数字」を投げてあげることで、ある程度期間を限定することができます。臨床的には頭痛のオンセットが12ヶ月前だろうが、24ヶ月前だろうが、そんなに大きな問題ではありません。でも、10年前からの頭痛持ちではなく、今朝急に起きた危ない頭痛でないことも分かります。どんどん鑑別は狭まっていき、「何故、この患者は頭が痛いのか」の謎の核心にどんどん迫っていくことができます。
時間の感覚に鋭敏でなければなりません。それは、時間厳守することではなく、時間に対する感受性を高く保っていくことなのです。これも、感性の問題だと私は思います。
空間の感性
ここでいう「空間」とは空気とか、雰囲気ということばに置き換えて良いかもしれません。KY(空気読めない)なんてことばが流行りましたが、その空気に近いかもしれない。
「末期がんの患者さんが呼吸不全になって、モルヒネで緩和ケアに移行しようと今家族と会議を開いたところです」
「なるほど」
「で、今朝熱発したので、血液培養2セット取って、ゾシンを使おうと思うんですが」
「どうして???」
ここでは、患者さんとその家族、そして医療チームが向かうべき道筋と発熱へのアプローチが完全に噛み合っていません。空気が読めていないのです。確かに熱発に血液培養2セットは教科書的には正当な行為ですが、この場合は完全にその文脈を外れてしまっています。「正しさ」を追求することは、ある命題を「正しい」か「間違っているか」という観点から切り取ることは、医療において必ずしも妥当なアクションとは言えません。正しさ探しゲームには要注意です。
この場合には、むしろ熱で苦しんでいる患者さんにデカドロン(デキサメサゾン)などを入れて楽にしてあげることが妥当なアクションなのかもしれませんね。その場の空気を感じ取り、目指している方向を読み取り、それに合致したアクションを取ればよいのかもしれません。原因の分かっていない発熱患者にステロイドは一般論としては御法度です。ですが、このような原理・原則は個々の患者に応用するために存在するのです。原理・原則を知っておくこと、「知識」があることは当然重要ですが、それは前提に過ぎません。原理・原則は活用されるために存在するので、活用されるため「だけ」に存在します。
空気の感性。これも感覚の問題で、知識の問題ではありません。教科書には書いていない、カルテにも文字化されていない、ことばにも出されていない、そのような「空気」を感じ取るのは感性の問題です。研修医に教えるべきは、このような感性です。知識はあくまでも、その後に付いてくるべきものであり、感性に従属する事物なのです。
ことば、時間、空気の感性を取り戻すために
このような感性を教えるためには、何より指導医自身がことば、時間、空気に対して鋭敏な感性を持っていなければなりません。
認めたくないことですが、ある程度はこの感覚はセンスの問題であり、天与のものであります。もともとことば、時間、空気の感性に長けた、感受性の鋭い人というのはいるものです。こういうのは天が与えた才能でして、私たち凡愚が逆立ちしてもかなうものではありません。
では、天与の才を与えられていない私たちはどうしたらよいのでしょう。
ここで、古典的な教育方法が、実は生きてきます。それは、感性豊かなロールモデルを見つけ、そしてその「背中を見る」ことです。
「背中を見て育つ」教育方法は古くさい、と否定されがちですが、そんなことは全くありません。特に、感性の問題は、レクチャーや教科書では何も得られません。ことば、時間、空気の感覚を一緒に背中を見てつかんでいくより他ないのです。
もし、身近にそのようなロールモデルがなければ、感性を磨くために必要なものは病院の「外」にあるのかもしれません。ことばの感覚をつかみ取るには良い文章を読み、良いことばに耳を傾けるのが一番です。それは詩や小説かもしれませんし、歌謡曲や映画かもしれません。美味しい料理やお酒、美しい風景、草花、建築物がそれを提供してくれるかもしれません。スポーツや武道で身体を動かすことがそれをもたらすかもしれませんし、恋をすることがそうなのかもしれません。自分自身で、ことば、時間、空間の感性を取り戻すこと。そのことが医師の研修において、医療においてもっとも大事なバックボーンなのではないか。最近、そう感じているのです。今回は論考中の問題を扱ったので、あまりまとまりがありませんでしたが、そこは「感じ取って」くださいませ。
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