やはり、大学の素晴らしさはその道の超プロがたくさんいることです。感染症領域のプロが神戸大にはたくさんいます。もともと僕は基礎の研究者になりたかったので、彼らに教えを請うと実にエキサイティングな話をしてくれます。プロの話は、いつだってエキサイティングなのです。
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0001769027.shtml
インフルエンザウイルスのプロもいらして、とても勉強になっています。
http://www.sysbio.jst.go.jp/j/sakigake/saki_06.html
まあ、下手をすると書類処理屋、雑用係、会議で座っている人、になりがちな大学生活ですが、そう捨てたものでもない(こともある)ということです。
http://lohasmedical.jp/news/2009/06/16000051.php
に対して提出したコメントです。こちらにも出しておきます。
岩田健太郎と申します。
まず、薬害とは何か、という根源的な議論が充分咀嚼されないまま「薬害はよくない」が「副作用は良くない」にいつのまにか変換されるリスク・誤謬 を明示されたことは大切だと思います。有害事象が起きることが薬害である、という観念をいだいてしまうと医療そのものを放棄する以外、これを払拭する手段 はないからです。いろいろな見解はあるでしょうが、有害事象が有害事象として患者、医療者、行政官などのプレイヤーに認識されないまま被害が広がり続ける ことが薬害なのでは、と私は緩やかには認識しています。
また、当事者が問題に対応すれば適切な対応になる、という幻想にメスを入れられた見解にも同意します。むしろインサイダーになってしまうと、「立場」 「事情」「情念やルサンチマン」が渦巻いてしまい、理にかなった判断が出来なくなることはよくあります。何が問題でどこがゴールなのか、という問題解決の 根本的な枠組みも見失われやすくなるのです。
ところが、このような高い見識が開陳される一方で、とたんにPMDAそのものの評価がアマアマになってしまうのが堀氏の議論展開の弱点です。これは、彼女が指摘した「検討委員会」の構造的弱点と全く同じ構造からくる誤謬なのが皮肉です。
例えば、仕組みの構築に「PMDAに任せるのが妥当」ととくに根拠も示さずにいきなり結論づけられています。しかし、医薬品というプロパティの属性が製 薬メーカーやPMDAだけに所属するのではなく、ユーザーたる医師、薬剤師、患者などたくさんのキープレイヤーたちが関与したものである以上、このような 乱暴な物言いは許されません。そもそも「薬害」という構造を生み出す最大の要素が情報隠蔽、情報のラテラリティーなのです。最近、ようやく是正傾向にあり ますが、既存の薬剤添付文書改正や運用の改善、新薬の運用に関してユーザーの声が非常に届きにくいのは厚労省やPMDAのお役所体質、問題が大きくなりす ぎないと認識しようとしないことなかれ主義にあります。
http://www.mhlw.go.jp/public/bosyuu/iken/p0618-1.html
厚労省もPMDAも程度の差こそあれ、叩かれて引きこもるという日本のおかみ依存、過度な責任引き受け、歪んだ使命感と諦観がもたらす沈黙、とい う同じ構造がぎくしゃくの遠因になっています。プレイヤーは異なれ、「構造」そのものは同じです。だから、仕組みの構築にはどこかが全てをになうようなラ テラリティーを排除したやり方が望ましいです。もちろんそのためには、国民(被害者の会だけではなく)、医療者、学術団体も「自分たちの問題」という意識 を高く持ち、「誰かに任せる」依存体質を廃してプレイヤーとして毅然と振る舞い、参加することも必要なのですが。
治験にたいする堀氏の見解も弱いです。「はじめに治験ありき」という立場が貫かれているので、それに対する条件留保がないのが問題です。例えば、 「やってみたら、どうも海外と違いそうだということがあります」とありますが、ではそれは何パーセントで生じるのか、全ての医薬品に対して一律に行う必然 性はどれくらいあるのか、なぜ他国では同様の見解が為されない(ことがある)のか、ドラッグラグとのリスク利益のバランスを考えてどこまで許容できる懸念 なのか、という部分が抜け落ちています。やめてしまえというのが極論であれば、根拠の「程度」が明示されないまま「とりあえず治験」というのもやはり極論 です。
私は、ある抗菌薬の添付文書の副作用情報が事実に反しているのでそこをただして欲しい、と要望したことがありますが、「臨床試験がないのでダメ」 と拒否されたことがあります。しかし、文書そのものに根拠がないものを新たなデータを揃えないと改訂しない、というのは論理的整合性を持っていません。 「とりあえず治験」「治験をすることそのものの自己目的化」という役所(あるいはそれに準じた構造物)が陥りがちなトートロジーがそこには見え隠れしま す。
「こういうことが起きるかもしれない」という事前の注意喚起は結構ですが、それがいつの間にか「禁忌」になってしまい、ユーザーの手足を縛ってし まうのも日本の添付文書の特徴です。これは新型インフルエンザ対策の誤謬とパラレルで、お上が箸の上げ下ろしまで規定してしまうとユーザーは現場で困惑し ます。注意喚起と命令は別物だということです。もちろん、添付文書は命令ではない、という「理屈」は成り立ちますが、それは現実にはそう運用されていない 以上、机上の空論、アリバイ作りに他ならないのです。
他の国からニセ薬を売られるリスクは何パーセントくらいあるのでしょう。自国で薬を作る、何パーセントの薬は自前で供給しなければならないのでしょう。 それは現在の我慢や忍耐を強要するほどの国益なのでしょうか。あるいはどこまでのそれが国益なのでしょうか。治験をやらないでも国内に導入して良い薬だっ てたくさんあるはずです(実際政治的に入れられていますし、、、)。治験をやる、という前提が目的化される誤謬が払拭されず、治験スキップの懸念を「ある なし」ではなく「どのくらいのリスク」という量的吟味がされない以上、結局はこの議論は既得権益の保持や立場の固持(誇示)といったチャイルディッシュな 議論に堕ちてしまうのです。立場の固持(誇示)はラテラリティーの温床です。ラテラリティーこそが、薬害の温床でもあることを、我々は再度理解し、確認す る必要があるのです。
岩田健太郎
教授
医療リスクマネジメント分野 神戸大学都市安全研究センター
微生物感染症学講座感染治療学分野 神戸大学医学研究科
感染症内科診療科長 神戸大学医学部附属病院
副センター長 神戸大学感染症センター