アルフレッド・W・クロスビーの「史上最悪のインフルエンザ 忘れられたパンデミック」は西村秀一氏の美しい訳文もあって重厚な素晴らしい内容の本です。残念ながらいろいろな現実的制約のなかでこの本を精読する余裕は今はないので、移動時間を利用して、ざっと流し読みしました。
2000万から4000万という途方もない数の命をたった1年足らずで奪ったspanish flu。実際には世界中で猛威をふるっていたのでスペインには申し訳ないのですが、しかし第一次世界大戦でやはり大量の命が失われていた世界にとって、命はあまりにも軽く、死はあまりにも日常的だったようです。だから、スペインかぜが世界にもたらした影響はその悲惨なエピソードの数々にもかかわらず、「軽い」ものだったのではないかとクロスビーは指摘します。第一次世界大戦というと「西部戦線異状なし」という胸にしみいる映画を思い出します。確かに当時は人の命はずっと今より軽かったのでしょう。カンボジアのような途上国に行くと、そこでは人の命がずっと日本やアメリカよりも軽いことが実感されるように、死に身近な環境であればあるほど、死は軽くなっていきます。
特に興味深かったのが、パリ和平条約におけるウイルソン米国大統領の葛藤とインフルエンザが外交上もたらした影響でした。今では考えられないことですが、1910年代のアメリカは世界的には「外交下手」で有名で、英国やフランスにいいようにあしらわれていたようです。司馬遼太郎の小説で大久保利通がやはり外交で大いに苦労したエピソードを紹介したことがありましたが(タイトル失念)、アメリカも又、冷静になって考えてみれば世界の新興国のひとつで、発展途上だったのでした。ウイルソンは国内のとりまとめに苦労し、外交に苦労し、そしてインフルエンザに苦しめられたのでした。
また、スコット・F・フィッツジェラルドが第一次世界大戦に従軍したのは有名ですが、彼の小説「楽園のこちら側 、This side of paradise」にでてくるダーシー神父はのモデル、ウェイ神父はスペインかぜで命を落としていたのでした。さらにおどろくことに、ヘミングウェイが従軍していた時ミラノで知り合った女性、アグネス・フォン・クロウスキーもインフルエンザで命を落としたのでした。クロウスキーはあの「武器よさらば」のキャサリン・バークレーのモデルだったのでした。なんという驚きでしょう。
西村氏のあとがきも秀逸です。学ぶところのおおい本書の、日本語版への序文にはこう書いてありました。アメリカの公衆衛生関係者のあいだで流行っているジョーク。
「19世紀のあとには20世紀が続いたけど、20世紀のあとに続くのは何かわかるかい?・・・・19世紀さ」
今回の新型インフルエンザの問題でぼくが新聞記者やテレビに聞かれる頻出質問があります。
「今回の国・政府の対応についてどう思いますか」
ぼくはそれを語る立場にはないし、あまり語る気もありません。彼らが一所懸命でやっているか。もちろんやっているでしょう。使命感に燃えているか?もちろんです。勇気を持ってやっているか。相当な覚悟を持って取り組んでいるはずです。心も体もぼろぼろにすり減らしているはずです。彼らのプラン、思考、アクションは妥当であるか?それをほんとうに知るには、あと数年を要するでしょう。
今の段階で言えるのは、総じて、ぼくは国や自治体(ここでは神戸市)の対応に満足している、ということです。彼らは本当によくやっていると思う。決意を持って仕事に取り組み、勇気を持って事に取り組んでいる。
決意と勇気
思えば、これこそが日本の感染症界に決定的に欠如した問題点なのでした。日本の感染症界は世界から見ると20年は取り残されていますが、それは技術や知識の問題というよりは、決意と勇気の欠如なのでした。今の問題点を直視し、それを自分の問題として受け止め、逃げずに取り組む決意と勇気が行政にも学術界にも医学会にも製薬業界にも足りないのでした。「ぼくではない、誰かの問題」にされてしまっているのです。
去年、厚労省の役人といろいろ話をしましたが、90% 以上の人たちはこの「ぼくではない誰かの問題」病にかかっていて、真剣に我が事としてぼくの話を聞いてくれませんでした。結核感染症課に行くと、「それは別の○○課の問題」といわれ、○○課に行くと××課に行けと言われ、××課ではそれには担当者がいない、などと言われたのでした。彼らの目は腐った魚のように濁っており、なるほど超過勤務で肉体が疲れている(国会答弁の原稿書き?)ことは理解しましたが、そこに崇高な精神や勇気をかけらほども見つけることはできませんでした。ぼくは彼らに心底失望し、がっかりしたものでした。
地方自治体も似たようなものでした。千葉県で麻疹が流行した時、抜本対策を提案した(「やってください」という要望ではなく、「いっしょにやろう」といったのです)とき、担当者は「となりの茨城県でもやっていないのに、どうして私たちが」と言ったのでした。千葉県では麻疹は毎年のように流行していましたが、その県の感染症担当者にとってはそれは「ぼくではない誰かの問題」なのでした。2008年、神戸大学での麻疹対策で一番最初にやったのは、「これは僕たちの問題です」と全てのひとに納得してもらうことでした。
でも、新型インフルエンザはあからさまに今の問題で、二年後に別の部署に異動する人たちにとってもとてもとてもさらっと流せる問題ではありません。あまりに圧倒的な問題で、「ぼくには関係ありません」とも言いづらい。海外は緊張しており、国内も緊張している。インターネットの普及も一因でしょう。CDCやWHOがどのように考え、どう判断し、どう動いているか、われわれのような市井の人間でもすぐに分かります。数十年前とちがい「日本だけが世界と違う」ことに寛容ではない社会なのです。
やれば、できる
条件さえ整えば、日本人も決意や勇気を持って事に取り組むことはできるようです。なんでもかんでも「日本独特の文化や考え方」に転嫁することで逃げ回ることはできず、その必要もないことは分かります。願わくば、この、今の気持ちを失わないように、その他の問題についても取り組んでいきたいということです。また、「ぼくではない誰かの問題」なんて言い出さないようにしてほしい。
さて、ぼくたちは最低数ヶ月、あるいは数年のスパンでこの問題とやり合わないといけないかも知れません。張り切りすぎると燃え尽きます。疲れ切ったボクサーは一度腰を下ろしてしまうと立ち上がるのが苦痛で仕方がありません。今は使命感と高揚感がわれわれを突き動かしてくれますが、使命感と高揚感だけではいつまでもうごけるものではありません。休息できる時に休息しましょう。笑える時は笑顔を見せましょう。眠れる時は眠りましょう。深刻で張り詰めて、ヒステリックな声ばかりに耳を傾けず、時には美しいささやき声にも耳を傾けましょう。あと数ヶ月経っても、数年経っても、この努力が続けられるように。
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